Nazca-Cusco
ナスカ〜クスコ
インディヘナの子供たち。
![]() ナスカの地上絵展望台
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1998年7月23日 Lima-Nazca 名残惜しいが、10日間過ごしたペンション西海に別れを告げ久しぶりの移動。 リマの町を抜けると殺伐とした荒野が広がる。巨大な砂丘を左右に見ながら砂漠地帯をひたすら南下。 パンアメリカンハイウェイをひたすら南下、リマから400km以上走ったところでナスカの地上絵のある岩漠平原に到着。上空には地上絵見物用のセスナ機が飛び、道沿いにはいつかテレビで見たことのある展望台があった。 走行距離:465km(Total 18,445km) 1998年7月24日 Nazca-Puquio-Chalhuanca ナスカから南へ30km、インカ時代の墓地(Cementerio Chauchilla)を訪れた。金銀の副葬品が盗掘され、あたり一面人骨が散らばっている。 インカの墓地遺跡ではニューヨークからやって来た自分と同世代のアメリカ人夫婦、カルメン、クリスに会った。英語で話すのは久しぶりなので単語が出てこない。苦しまぎれにスペイン語を混ぜて話した。会話の中でカルメンさんは「今度ニューヨークへ来たら電話してちょうだい、町を案内してあげるわ。」と言ってくれた。近いうちに両親を連れてシカゴやニューヨークへ建築物を見に行こうと思っていたのでありがたいお言葉だ。アドレスを交換し、ニューヨークでの再会を約束。 インカの墓地遺跡を見たあと、一路クスコ目指して東へ向かう。地平線の彼方に見える丘は標高6,000メートル以上の大山脈だ。 チャルアンカの手前で橋が落ちており、迂回路が川の中に潜っていた。暗くて向こう岸がよく見えないが川幅は20メートルくらいあるだろう。水は濁流となっている。こんなところで水没したらお終いだ。ここは安全策をとってバイクを押す事にした。ブーツを履いたまま水の中にザブザブ入って行く。見た目よりかなり水深があり、すでに膝が濁流の下に潜り見えなくなっている。ヘッドライトで向こう岸を照らすが、霧が出ているため出口が見えない。一歩進むにつれ、水深はさらに深くなり流れも速くなる。足がふらつき流されそう。 やばいと思った。こういう場合はバイクを押して川に入る前に自分一人で歩いて確認すべきものだったのだ。標高の高い場所で判断力が確実に鈍っている。こんな川の中では方向転換もままならない。「誰か助けてくれー」と叫んだところで人の気配はない。
「このままバイクごと流されて土左衛門か!?
いや、負けてなるものか!!」 最後の力を振り絞って走行ラインを50センチずらしたら水深が10センチ下がった。川底には頭大の石がゴロゴロしているがエンジンを吹かし、数回エンストしながらも何とか向こう岸に渡りきることができた。ホッと一息、もしこのエンジンがセルスターターじゃなかったら川の真ん中で身動き取れず、本当に大変な事になっていただろう。 少し行くとまた川の流れる音が聞こえてきた。また川渡りがあるんじゃないだろうなと思ったが、そのいやな予感が当たった。しかし二本目の川は水深40センチ、川幅15メートルで難なく渡りきることができた。 ホテルの人にゲリラの活動状況を訊いてみた。このあたりで活動していたゲリラはは最近ほとんど殲滅状態、近年は平和な日々が続いているそうだ。しかし、アヤクーチョではまだゲリラ活動が続いているらしい。ここからアバンカイへ行く道の途中に橋が5から6本架かっているのだが、センデリスタが暴れていた頃は何度も爆破されていたという。トラックが通れないので物資の供給が間に合わず、不便な生活を強いられていたらしい。 ホテルに着いて約一時間後、アレハンドロのグループが到着した。みんな足がずぶぬれだ。もっと手前でキャンプでもするのと思っていたが、彼らもこのホテルに泊まるらしい。アレハンドロたちもあの川渡りで苦労したらしく、「ヒロはたった一人であんな川を渡ってきたのか!?クレイジーな日本人がいるものだ!」と言って驚いている。 振り返れば今日は長い一日だった。 走行距離:417km(Total 18,862km) 1998年7月25日 Chalhuanca-Abancay-Cusco チャルワンカの村でガソリンを補給した後、しばらくアレハンドロのグループと一緒に走った。五人いればゲリラが出てきても心強い。過去センデロルミノソのゲリラが爆破していたという橋を何本も通過するが、その付近の川は深く流れが速い上両岸ともゴルジュになっているので復旧作業が大変そうだ。谷が深いので迂回路を作ることも難しそう。 クスコに着いて「ペンション花田」に宿をとる。ここも日本人宿として多くの日本人貧乏旅行者に利用されている。 走行距離:335km(Total 19,197km) 1998年7月26〜27日 Cusco 高山病にやられて二日間動けず、48時間何も食べずベッドの上でのたうち回った。 27日夕方、コカ茶をがぶ飲みすると症状がかなり良くなり、花田さんがご馳走してくれたラーメンを全部食べることができた。これでやっと生きた心地だ。あともう一日安静にしていれば高山病も治るだろう。 走行距離:0km(Total 19,197km) 1998年7月28日 Cusco 朝から晩まで一日中HPへの入力をして過ごす。まだ腹の具合が悪いが、明日には良くなるはず。 走行距離:0km(Total 19,197km) 1998年7月29日 Cusco 町のインターネットカフェでFTP送信。FTPソフトはインストールされていないが、自分で持ってきたディスクからインストールさせてもらう。このソフトはインストール後PCを立ち上げ直さなければならないことになっているが、それをしなくても利用できることがわかった。 走行距離:0km(Total 19,197km) 1998年7月30日 Cusco 米国サウスダコタに住む友人、ブライアンからメールが来たのだが、そのメールによると彼は自分のバイクショップをオープンしたという。 同世代の友人が次々と新しい事業を興しているのを知ると嬉しさと同時に、自分は何をやっているんだという切迫感に迫られる。 走行距離:0km(Total 19,197km) 1998年7月31日 Cusco-Urubamba-Ollantaytambo-Cusco マチュピチュ遺跡へのアクセスはインカ道を歩いて行くか、又は列車で行くかの二つしか方法がないことになっている。せっかくここまでバイクで走ってきた自分としては、どうしてもバイクで走って行きたいもの。ものは試しに、バイクで行けるところまで行って道があるか無いかだけでも確かめに行くことにした。 クスコから約80km、オリャンタイタンボの村を抜け、更に石ころだらけの狭い道を約20km走ったところで車道が消えていた。人が歩くインカ道はその先も続いているのだが、幅の狭い道にバックパックを背負った人が数百人規模で数珠繋ぎに連なっている。インカ道の取り付けにバイクを止めて佇んでいるとインディヘナのおばさんが「どないしたねん?」と話しかけてきた。ケチュア語混ざりの聞き難いスペイン語だ。「バイクでマチュピチュへ行く方法はないかい?」と訊くと、「線路の他に道は無いんじゃ。インカ道もアップダウンが多いのでバイクじゃ無理だでよ。」と言った。やはり列車に乗って行くしか方法はないのだろうか。 走行距離:216km(Total 19,413km) 両替 TC$50 -> 143soles 1998年8月1〜5日 Cusco この一週間、バイクの分解整備や荷物の再点検、その他身の回りの雑用をして過ごした。中南米の旅を初めてすでに六ヶ月近く経過しているためか、不要なものが増えている。未処理の書類が束になり、やたくさんの人からもらった名刺が山積みだ。旅行中は洗濯(手洗い)や縫い物(手縫い)を含め、すべて自分でこなさなければならないので結構忙しい。 今泊まっている宿「ペンション花田」には多くの日本人旅行者が訪れている。ここ数日の間にも自転車で南米大陸を走っている自転車旅行者、バイク旅行者などがたどり着いた。彼らについては「中南米で出会ったあやしい日本人たち」、「中南米のバイク旅行者」のページで紹介しよう。 走行距離:198km(Total 19,611km) 両替 TC$50 -> 143soles 1998年8月6日 Cusco-Pisac-Urubamba-Cusco 久しぶりにバイクに乗りクスコ周辺を散策した。ウルバンバ渓谷に沿っていくつか温泉が湧いていることがわかった。温泉巡りの旅をしている谷川さんに教えると、さっそく現地調査に行くとのこと。詳しいレポートは「旅人から聞いたお話」で紹介しようと思う。 走行距離:198km(Total 19,611km) |