Quillabamba-Machu Picchu-Puno
キジャバンバ〜マチュピチュ〜プーノ

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Machu Picchu マチュピチュ

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 直線距離は短いのだが...。

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アマゾンベースンへ降りる道。

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 キジャバンバの町は標高約1,100m、セルバ地帯にあるので蒸し暑い。

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 アンデスのバックロード。

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 アグアスカリエンテスの町並み。

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 南ペルー二輪車協会会長、マノルドさん。

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 インカラリーの現地オーガナイザー、エンリケさん。

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Paruro-Accha

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Colcha

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 団扇サボテン

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Pillpinto

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 国道3号線で天久さんに再会。

1998年8月7日

Cusco-Quillabamba

 ガイドブックによると、アグアスカリエンテスの向こう側の村、サンタテレサまで車でアクセスできることになっている。そこまでたどり着くことが出来ればマチュピチュまで歩いて行けるだろう。サンタテレサまで約300kmの道のりだが、バイクでマチュピチュの近くまで行けるのなら苦にならない距離だ。とりあえず今日はキジャバンバの村まで走ることにしよう。

 クスコからキジャバンバまで約240km、その内160kmは未舗装の峠道である。直線距離は短いのだが、標高差があるので道はジグザグのツヅラ折れだ。4,200メートルの峠を越えると、道は渓谷の底へ吸い込まれるように標高を下げて行く。森林限界線以下へ降りると太平洋側の低地では見られないような熱帯性の植物が繁茂している。これはアマゾン平原へ入った証拠。標高約1,100メートル、セルバ地帯の町キジャバンバへ着く頃は気温も30度を越え、湿気を帯びた空気がまとわりつき蒸し暑い。

 町に入って何人かにマチュピチュ方面への道を訊いているのだが、「道がある」という人と「道はない」という人の割合が半々。ガイドブックによるとサンタテレサの村までは車道が続いていることになっているのだが実際はどうなのだろうか。
 いずれにせよ道路探索は明日から行うことにして、今日はホテルで休むことにした。しかし、とんでもないことに入ったホテルが泥棒宿であった。食事から帰ると部屋の荷物が物色されている。幸い貴重品などは鍵がかかるバッグに入れていたので無事だった。今回は大部分の荷物をクスコのホテルに預けてほとんど空荷で来ていたいたのが幸いだ。
 しかし、あとで気がついたところによるとバイクに搭載の車載工具が盗まれていた。

 標高1,100メートルといえどもセルバ地帯は暑い。気温は夜間も30度を越え、夜寝るとき体中が汗ばむほど暑かった。

走行距離:241km(Total 19,852km)
宿:Hotel Aleguria 18soles
出費:ガソリン19.50soles(3.2G),
   昼食 6soles 夕食 6soles


1998年8月8日

Quillabamba-Ollantaytambo

 キジャバンバからサンタテレサの道を探して走っているのだが、地図に載っている道が見つからない。ジャンクション付近のガソリンスタンドで訊ねたところ、エルニーニョの影響で橋が落下、道路も所々崩壊、だいぶ前から不通になっているらしい。道路から見える鉄道も土砂で埋まり、線路が崩壊しているのだが、復旧の目処が立っていない様子。そのためかオリャンタイタンボまでのアクセスも峠道160kmのバス交通に取って代わっている。

 キジャバンバからサンタテレサまで直線距離は僅か数十キロなのだが、道路が崩壊した今ではバスと列車を乗り継いで200km以上も迂回しなければならない状態らしい。
 バイクではもうお手上げ、ワイヤーや滑車があったとしても一人で行くのは無理だろう。バイクによるマチュピチュ行きは諦めて、悔しいがオリャンタイタンボから列車で行くしか方法はない。

 オリャンタイタンボまで160kmの林道を戻ることにした。このページの上の写真で見られるような狭い渓谷を縫って砂利道が続く。日本では僅か数十キロの林道を求めて何百キロも舗装路を走らなければならないが、ここでは至る所数百キロ規模の林道が続いている。

走行距離:165km(Total 20,017km)
宿:US$10
出費:ガソリン15.50soles(2.9G)
   朝食 6soles 夕食 10soles


1998年8月9日

Ollantaytambo-Machu Picchu-Ollantaytambo

 今日はオリャンタイタンボのホテルにバイクを預け、列車でマチュピチュへ出かける。

 列車は20分遅れでオリャンタイタンボの駅に到着した。駅といってもプラットホームのようなものはなく、乗客は地面からステップを上がって列車に乗り込むようになっている。車内に入ると中は満員、通路にまで人が立っている。全員乗り込んだところで列車は汽笛をあげて動き出した。単線の狭い軌道をガタゴトとゆっくり走る。乗り心地は決して良いとは言えないが、スピードが遅いので外の景色をゆっくり見られる。線路はウルバンバ川に沿って谷間を縫うように続く。
 ウルバンバ川は意外に急流が多く、五級の瀬が連続している。岩が出ているのでフォールディングカヤックではバラバラになるだろう。マチュピチュの下までカヤックで行くのも良いかもしれないが、スラローム艇とかなりの腕がなければ無理。

 乗車して約二時間後、列車はアグアスカリエンテスの駅に到着した。線路の周りはレストランや土産物屋が並んでいる。ゴミゴミして煩雑な町並みだ。
 マチュピチュまではツヅラ折れの道をバスで登る。さて、いよいよ深い谷と高い山に囲まれた天空都市遺跡「マチュピチュ」を見るときが来た。
 初めてマチュピチュ遺跡を見た感想だが、感激で言葉にもならない。写真を何十枚か撮ったが、写真を見ても実際に現地に来なければその存在の偉大さを知ることは出来ないだろう。

走行距離:165km(Total 20,017km)
宿:US$10
出費:食費 30soles
   列車19soles(往復)
   バス18soles(往復)
   マチュピチュ入場料 US$10


1998年8月10日

Ollantaytambo-Cusco

 オリャンタイタンボの村をあとにチンチェロ村経由でクスコへ戻る。この道を走るのもすでに四回目となった。広々とした丘陵地帯に日干し煉瓦造りの素朴な家が所々建っている。

 ホテルに戻り、ダートロードを走って砂埃まみれになった衣類、バッグなどを洗濯する。南米は電機洗濯機が普及していないのでいつも手洗いだ。慣れると機械で洗うよりも綺麗に仕上がるのだが、何しろ時間がかかる。今回はすべて洗い上げるのに三時間かかった。

走行距離:82km(Total 20,099km)
宿:ペンション花田 US$5
出費:食費 10soles

US$20 -> 58.6soles


1998年8月11日

Cusco

 ここへ来てバイクの各部位がかなり疲労してきた。そろそろ伸びきる寸前のチェーンを交換しなければならないし、破損したウインカーを修理する必要もある。盗まれたプラグレンチも手に入れなければならない。しかしクスコのような小さな町ではバイクの部品を手に入れるのは一苦労、数軒あるバイク屋はどれも小規模な個人経営店だ。DIDのノーマルチェーン(US$33)は在庫があるのだが、Oリングチェーンはどこの店にも在庫がなかった。

 最後、トヨタ自動車の販売店にバイクの部品を扱っている一角を見つけ、チェーンの在庫を訊いてみたが答えはノー。しかしここで南ペルー二輪車協会会長、マノルドさんに会った。彼はKTM300EDやDR350を所有するオフロードライダーでもある。時々エンデューロレースなどにも参加する傍ら、国際的に有名な「インカラリー」の運営にも関わっている。僕がOリングチェーンを探していることを知ると「知り合いが持っているかもしれないのでなんとか探しだしてあげよう」と言ってくれた。実にありがたきお言葉。

走行距離:0km(Total 20,099km)
宿:ペンション花田 US$5
出費:食費 24soles

両替 US$100(Citi)


1998年8月12日

Cusco

 マノルドさんの紹介でインカラリーの現地オーガナイザー、エンリケさんに会った。彼の話によると来週、アチェルビス社長のフランコ・アチェルビス氏がミーティングに来るらしい。ラリーを運営する関係者は来年11月開催予定のインカラリーに向けて、その準備に忙しい毎日が続いている。

 マノルドさんがクスコ中あちこちに問い合わせ、チェーンを探し回ってくれたのだが、せっかくの努力も虚しく見つからなかった。しかし方々に車を走らせ探し回ってくれた親切は忘れられない。クスコ近辺のツーリングコースを教えてくれたり、車でクスコの町をまわって見せてくれたり...。こうしてクスコで出会った人々の中で一番親切な人物となった。

走行距離:0km(Total 20,099km)
宿:ペンション花田 US$5
出費:食費 32soles

両替 US$100(Citi)
   US$20 -> 58.6soles


1998年8月13〜16日

Cusco

 13日、HPの編集を終えてインターネットカフェからアップロード。

 14日、洗濯、荷物の整理、バイクのリペア...。

 15日、撮影済みのフィルムを写真家の友人宛に郵送。スライドフィルムの現像は第三国では仕上がりに問題があるので日本で処理するのが望ましい。今回はプロカメラマンである友人の厚意ですべてのフィルムを日本で即座に現像することが出来る。

 16日、自転車で南米大陸縦断中の天久さんを見送る。進行方向が同じなので明日路上で追いつくだろう。粗食に耐え、泥水をすすり、日々人力で移動している彼に勲章を贈りたい気分。

走行距離:0km(Total 20,099km)
宿:ペンション花田 US$5 x4
出費:食費 78soles
   郵便料金 60soles
   インターネットカフェ 15soles/3h

   US$60 -> 175.8soles


1998年8月17日

Cusco-Acomayo-Julica-Puno

 今日は三週間ぶりの移動だ。マノルドさんおすすめのコースを走るため、クスコのはずれから西へそれてバックロードへ入る。過去のインカラリーでも使われたコースだが、思った以上にアップダウンが多くて距離を稼げない。路面は日本の林道そのもので、ドリフトしながら一生懸命走っても平均時速は30km程度。結局国道三号線の80km地点に出てくるまで連続200kmも林道を走ってしまった。かかった時間は六時間。

 二時過ぎになって自転車の天久さんに追いついた。クスコから約180kmの地点だ。16日の朝、天久さんがペンション花田を出るのを見送ったばかりだが、なぜか懐かしい。バイクだと二時間ほどの距離なのに彼は二日もかけて人力で移動しているのだ。健気というか尊いというか複雑な気分。今日はその辺の原野で野宿するというが、自分は失礼ながら先に進ませてもらう。

 林道を走ったことでかなり時間を食われたが、思ったより道が良いため日没前にプーノへたどり着いた。
 一泊500円でバイクが置ける安宿を見つける。標高3,880メートルの高地でかなり冷え込むのにシャワーは冷たい水しか出ない。そしてその水も夜には断水してしまった。

走行距離:531km(Total 20,630km)
宿:Hostal Torino 10soles
出費:食費 14soles
   ガソリン 15soles(2.8G)
   20soles(3.8G)


1998年8月18日

Puno

 ペルーからボリビアへ抜ける国境はチチカカ湖南方の二カ所が一般的だが、湖の北東部にもNinantaya〜Puerto Acosta間の国境が開いている。なるべく他人が通らないルートを走る事に価値観を持つ自分としては、どうしても通ってみたい国境だ。しかしこのルートはマイナーなためペルー側のイミグレーションが無いらしい。そのため、ここを通過する際はプーノのイミグレーションで出国手続きしなければならないことになっている。

 イミグレに出向き、湖の東回りで出国したい旨を伝えると「なぜ公式な国境を通らないの?」と怪訝そうな顔で訊かれた。なぜと訊かれても通りたいものは通りたいのだ。ここは適当に「写真が撮りたいから」と理由を付けてきり抜ける。パスポートとツーリストカードのコピー二枚を提出したあと出国スタンプをもらい、更に出国スタンプのあるページと、スタンプの押されたツーリストカードのコピーをとらされた。イミグレにコピー機がないので二回も外へコピーを取りに出かける事になる。まったく効率が悪いがここはペルーなので仕方がない。そういえばエクアドルからペルーに越境したときもペルーにコピー機がないためエクアドルへコピーを取りに戻る羽目になったっけ。日本の常識で考えるといつも怒っていなければならないな。

 念のため、プーノ市内にあるボリビア領事館へ出向いて、プエルトアコスタへバイクで国境越えできるか否かを確認した。領事館の人は「まったくノーアイプロブレマだ」というが本当だろうか。いやな予感がする。

 街を歩いているとき、どこで手に入れたか知らないが日本の携帯電話を持っている私服警官に会った。そして彼はディスプレイに表示されている日本語をスペイン語に訳してくれと頼んできた。
 現在、ペルーの携帯電話は日本の初期に使われていたもののような大きさで携帯性に優れていない。(まるでコードレスホンの子機だ。) 現在日本で使われているような小型のものは無いので、私服警官氏は日本の携帯電話がえらく気に入った様子。しかしペルーで利用したいと思ってもディスプレイが日本語表示、何て書いてあるのかさっぱりわからない。そこで通りがかりの日本人を見つけた彼はファンクションスイッチや操作メニューなどカタカナ表示の翻訳を頼んだわけ。
 無駄だと思いつつも、ひとつひとつスペイン語に訳してあげたのだが、交換機のシステムが違うので実際に利用するのは不可能だろう。

走行距離:0km(Total 20,630km)
宿:Hostal Torino 10soles
出費:食費 soles
   切手 13.2soles


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