Quito y Cerca de Quito
キトとその近郊
標高 4,500メートル! コトパクシ山麓のバックロードを走る。
![]() アマゾン源流地帯。遠くに見えるのは石油パイプライン。
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1998年6月7〜8日 Quito ネット上で南米の情報を調べたり、あちらこちらの掲示板に書き込んで情報交換しているうちにネットから離れられなくなった。本当はNHKのインタビューが終わったらさっさと安宿に移るつもりだったのだが、結局五日間も滞在が延びてしまった。その後電話のない安宿に移っても三日以上インターネットから離れると禁断症状が出てきて、ついついインターネットカフェに足を運んでしまう。山深いアンデスやアマゾンの原生林にあこがれてやって来たというのに情けない。明日は安宿に移って鍛え直さなければ。 走行距離:0km(Total 14,603km) 両替 500,000sucres(Citibank card) 1998年6月9〜11日 Quito キト新市街で一番安い宿を見つけて三日間泊まったのだがとんでもなく居心地の悪い宿だった。床はゴミだらけ、壁に血と鼻くそがなすり付けてあり、部屋全体悪臭を放っている。その上隣の部屋には労働者風の男や人類最古の商売に就いていると思われるケバケバのお姉さんが泊まっている。狭いロビーではエクアドルのつっぱり兄ちゃんが一日中ガンを飛ばし、廊下ではゴミの山の上に少年が寝っ転がってブツブツわけのわからないことをしゃべっている。 走行距離:1km(Total 14,604km) 1998年6月12日 Quito 三日間、無名宿の部屋に閉じこもってホームページの英訳をしていたのだが、居心地の悪さに耐えきれず四日目にして部屋を出ることにした。近くにあるEl Cafecitoという小さな宿に移った。一泊46,000スークレ($9.00)と高い割には部屋が狭く(二畳間程度)共用のバスルームはお湯が出ない。階下のカフェでは夜中1時まで人がしゃべっているのでうるさくて眠れない。この宿も結局一日泊まっただけで出ることになった。 走行距離:4km(Total 14,608km) 1998年6月13日 Quito Wさん、Wさんの息子さんと共に釣りへ行くことになった。目的地はアマゾン川源流地帯、狙いは野生のニジマスだ。キトから東に100kmほどの行程では途中4,000級の峠越えがあり、景色を見るだけでも楽しい。今回はW氏の運転する車で来ているのだが、アマゾンベイスンへ降りる道は途中から未舗装路。バイクで走ると楽しそう。 午後、三度目の正直でついに良いホテルを見つけることができた。電話はないがアメリカのホテル並に清潔、シャワーもお湯がたっぷり出る。周りの環境も静かで安全、屋根付きのガレージにバイクを入れることができる。スペイン語学校からも徒歩5分の距離にあり、新市街の中心近くで利便がよい。しかも一泊の宿泊料がたったの6ドルだ。 走行距離:0km(Total 14,608km) 1998年6月14日(日) Quito 何か悪い食べ物にあたってしまったようだ。腹痛、吐き気、頭痛に襲われ部屋で一日中のたうち回った。とほほ...。 走行距離:0km(Total 14,608km) 両替 300,000sucres(Citibank Card) 1998年6月15日(月) Quito キトの街にはインターネットカフェがたくさんある。新市街を中心に、自分で確認しただけでも10軒以上見つけることができた。どこも料金設定は似たようなもので1時間4ドル程度で利用できる。 午後になってスペイン語学校の入学手続きを行った。市内には数え切れないほどのスペイン語学校があるのだが、中でも実績のある「ガラパゴス・スパニッシュスクール」を選んだ。 走行距離:0km(Total 14,608km) 両替 300,000sucres(Citi) 1998年6月16日(火) Quito-Cotopaxi-Quito キトの南にそびえるコトパクシの山へ走りに行った。残念ながら山そのものは雲に隠れて見えなかったが、晴れていれば富士山そっくりな勇姿が見られたはず。しかし山頂付近以外は青空が広がり、走っていて気持ち良かった。 走行距離:389km(Total 14,997km) 1998年6月17〜19日(水〜金) Quito 17日水曜日からスペイン語のレッスンが始まった。先生はミリアンという名の女教師だ。午前中四時間の個人レッスンがあるのだが、雑談まじえながらの講義は結構楽しいもの。途中コーヒータイムをはさみ、あっという間に時間が過ぎて行く。 金曜、インターネットカフェからFTPサーバーに接続、更新してみた。さすがに専用線で接続しているのでデータの転送速度が速い。日本語環境がないのため日本語のページが見られないことが残念だが、わざわざ電話を求めて高いホテルに泊まる必要がないのでありがたい。今後もHPの更新だけならインターネットカフェを利用しようと思う。 走行距離:0km(Total 14,997km) 1998年6月20日(土) Quito コロニアル都市の町並みが残る旧市街は歩道が狭い上、露天が多いので狭い道が更に狭くなっている。たくさんの人でごった返し歩くところが無いくらい。新市街にいるとエクアドルが豊かな国のように錯覚するが、旧市街でホームレスや物乞いの姿を見ると、やはりここは南米なんだということを思い知らされる。街を歩いていると何人もの貧しい人から「お恵みを...」と声をかけられた。 新市街と旧市街の間に公園(Parque El Ejido)がある。公園内には露天がたくさん並んでおり、金・銀のアクセサリーやインディヘナの民芸品、その他フォルクローレのカセットテープなどが売られている。また、公園の周りはまるで露天ギャラリーのようになっていて、多くの絵画が並べられ即売されている。小学生が書いたような駄作から、思わず衝動買いしたくなるような素晴らしい絵まで、多くの作品があった。 走行距離:0km(Total 14,997km) 1998年6月21〜25日 Quito ガラパゴススペイン語学校は週が変わるごとに先生が交代することになっている。今週の担当はフレディという名の先生だ。しかしこのタヌキのようなおっさんがくせ者だった。わけわからない教え方しておいて練習問題などで間違えた答えを出すと「そんなこともわかんねーのかよアホ!」と思いっきりバカにするのだ。(畜生!わかんないから学校に来てるんじゃないかよ。) そしてクラスの合間に「昼飯にいくら使ってる?」だの「バイクはいくらで買った?」だのお金にまつわる話ばかりする。 走行距離:0km(Total 14,997km) 両替 400,000sucres(Citi) 1998年6月26日 Quito スペイン語レッスン最後の日、さんざんバカにしてくれたお礼に納豆、くさや、イナゴの佃煮、とろろ、豆腐などをご馳走してあげようと思い、フレディを日本食レストランへ連れてってあげた。もちろんスプーンやフォークは願い下げし箸を使ってもらう。あいにく「くさや」や「イナゴ」、「とろろ」は無かったが、豆腐の味噌汁や寿司、納豆巻き等を注文した。学校ではあれほど威張りくさっていたフレディも急におとなしくなって不慣れな手つきで箸を使う。聞くと箸を使って食べるのは今回が初めてだそうだ。 最後になってもの凄い謙遜した態度で「今日は本当にどうもありがとう」と言ってくれたのでびっくりした。フレディも本当はいいやつだったのだ。 走行距離:0km(Total 14,997km) 両替 500,000sucres(Citi) 1998年6月27〜28日 Quito メールの送受信、掲示板への書き込みなどしようと思い、電話のあるホテルへ移った。しかしibm.netへ接続しようとするのだがユーザー名とパスワードが通らない。今までの経験から日中は難しくても深夜になれば使えるようになるだろうと楽観し、夜2時頃起きて接続を試みたが何度トライしてもだめだった。まったくスタビリティの無いプロバイダーだ。これで電話を使うため三倍も宿泊料が高いホテルに移った事が無駄になってしまった。自分のパソコンでインターネットが使えなくなると南米の地で命綱が切られたような気分。仕方なくサイバーカフェのコンピューターからヘルプディスクへメールを送った。 しっかし明日から旅を再開しようというのに何てこった。そもそも南米からモバイルしようなんて考えるのが間違いなのだろうか。旅先から自分のホームページに写真や旅行記を次々とアップロードするという、そんな新しい試みが受けてNHKラジオでも紹介されたと言うのに情けない。 走行距離:0km(Total 14,997km) 両替 500,000sucres(Citi) 1998年6月29日 Quito-Cuenca 今日は一ヶ月ぶりに旅の再開だ。残念ながら天気が悪くコトパクシもチンボラソも雲に隠れて見えない。予定ではバーニョスやリオバンバの街に何泊かしてチンボラソ山の山麓を走り回ろうと思っていたが、天気が回復しそうにないので素通りすることにした。もったいない気がするが雨で何日も停滞する方が更にもったいない。結局クエンカの街まで560km一気に走り抜けた。 走行距離:564km(Total 15,561km) 1998年6月30日(ペルー国境まで) Cuenca-Huaquillas クエンカから海岸部へおりる道は岩山を縫うように走るワインディングロード。所々落石があり、道に大きな穴があいていたりする。 山岳地帯を抜け、平野部におりたところで武装した警察が検問していた。ここでノートにパスポートの番号などを記入される。まるで見えない国境だ。このゲートを越えたところから人々の様子ががらりと変わった。同じインディヘナと言っても山岳地帯に住むインディヘナとは明らかに顔だちが違う。堀っ建て小屋のような粗末な家が多く、貧相な格好をしている人が増える。同じ国でも山岳部と平野部では文化も民族構成も違うらしい。 平野部はバナナ農園が果てしなく続いていた。平らで真っ直ぐな道を南下すればペルー国境までもうすぐだろう。 続きは次のページへ |