1998年5月16日 Cali-San Agustin
二日間滞在したカリの町を出て南へ向かう。
カリから約150kmPopayanの町から東のPurace国立公園方面に進路を変え、再びアンデスの山間部へ入る。このあたりは熱帯性の植物が繁茂し、日本では見られないような風景が続く。
Coconucoの町を通り過ぎると道はダートとなり、地表の岩がゴツゴツ飛び出す山道となった。始めのうちは道の脇に牧場やコーヒー農場が見られたが、Purace国立公園へ入る頃には原生林の鬱蒼する山岳地帯となる。ここまで来ればもう人の姿もほとんど見られないし、道行く車も希少だ。
標高を上げるほど霧が濃くなり、ついには霧雨が降ってきた。4月〜6月は雨期である。標高3,000m以上の高地、酸素が薄いため頭が痛み出す。明らかに高山病の症状だろう。山の中、突然現れた山小屋のような食堂で昼食をとったのだが、暖かい肉のスープ、ビフテキ、卵焼き、サラダ、ご飯、ジャガイモ、それにコーヒーを飲んでたったの3,000pesos(300円)だった。これで寒さも吹き飛び、元気が戻ってきた。ダート路を80km以上走ったところでIsnosの町に出る。更にマグダレナ川を渡り上流の方へ数キロ行くとSan
Agustinだ。
中央広場近くのホテルに入ったら、宿泊料はたったの4,000pesos(400円)。中庭にバイクをとめられるので安心だ。この町に何日か滞在することにしよう。
走行距離:283km(Total 13,833km)
宿:Hotel Ullumbe 4,000pesos
出費:食費 8,300pesps
ガソリン 8,000pesos(3.4G)
1998年5月17日
San Agustin
馬に乗ってSan Agustinのまわりの遺跡群を巡ることにした。約4時間のコースだが、馬とガイド料を含め24,000pesos(2,400円)だ。
馬に乗るのは生まれて初めての経験だが、ガイドのルイスに乗り方を教わりなんとか走らすことができた。馬の名はパロマ。小柄の白い馬だ。初めて乗った感想だが、歩いているときはもちろん、走っているときもかなり振動があり、馬の挙動にあわせながらうまくバランスを取っていないと落馬しそうになる。
ケツをたたいて走らせるのだが、振動ばかりが大きく思ったよりスピードが出なかった。競馬場で見るの競走馬のスピードの三分の一くらいだろう。しかし悪路での走破性はよく、泥沼やガレ場、激坂など、ゼイゼイいいながらもパカパカと進んでくれる。
馬を走らせ、マグダレナ川上流の渓谷をゆっくりまわってみると、景色はまるでフォルクローレの世界だ。
San Agustin周辺には5,000年前に彫られたという石彫りの像が点在しており、像は人、動物、蛇などがかたどられている。
ガイドのルイスは時々馬を止め、道ばたに生える野生の果物や食用の花などを採って説明してくれる。
グァジャバと呼ばれる黄色くてピンポン玉ほどの大きさの果物が自生しており、皮ごと食べると甘くて結構うまかった。別な場所では唐突に黄色い花を摘みだし何するかと思ったらいきなり食べはじめたので驚いた。自分もひとつ食べてみると、甘いミカンのような味がして美味しかった。
また更に別な場所では「グァマ」と呼ばれる巨大サヤエンドウのような形の実を採って食べさせてくれた。サヤに入っている種は黒くて5センチくらいあるのだが、食べるのはそのまわりの白くてフワフワした部分。甘くてシャリシャリした歯触り、独特な味だが美味い。
道端にいた雄鶏が馬に驚いて羽ばたきはじめたと思ったらそのまま垂直に飛び上がり、高さ5メートルほどの崖の上にあがってしまった。それを見て驚いているとルイスが「日本の鶏は飛べないのか?」と不思議がっていた。さすがコロンビアは鶏からして鍛え方が違うらしい。
走行距離:0km(Total 13,833km)
宿:4,000pesos
出費:食費 14,500pesos
1998年5月18日
San Agustin
雨のため停滞。ホテルの隣にある食堂へ朝食を食べに行った。搾りたてのパパイヤジュース、フルーツサラダが安くてうまい。夕方にはコミーダコリエンテ(定食)を食べたのだが、スープ、ご飯、フリホーレス、牛肉、桃のジュースがセットで300円程度だった。
走行距離:0km(Total 13,833km)
宿:4,000pesos
出費:食費 7,800pesos
1998年5月19日
San Agustin
朝、出発しようと荷物をまとめているとき、ホテルの人が来て待ったがかかった。聞くと、大統領の失政に抗議した農民(コカ茶農家?)がデモを起こし道路を封鎖しているらしい。町から出る道がすべて閉鎖され、武装したゲリラ兵士が見張っているとのこと。
もし通してくれたとしても暴動が起きやすい状態にあるので動き回るのは危険だと言う。朝食ついでに警察署で聞いてみると明日には道路封鎖も解除されて通れるようになるだろうと言う。
仕方ないがもう一日停滞だ。
夕方、ガイドのルイスがホテルの広間に来たので少し話をした。
私: 「ここから南へ行く道は危険じゃないかい?」
ルイス: 「危険じゃないけど一度Popayanへ戻った方が早い。」
私: 「エクアドルへ行く道でゲリラが出たりしないかい?」
ルイス: 「ゲリラなんて全国どこにでもいるよ。俺もゲリラだもん。」
聞くと、家にはマシンガンや拳銃があるとのことでおそれいった。
この時ホテルを運営しているファミリーをまじえて雑談していたのだが、何気ない会話の中でも女将が、「日本にコカ1kgもってったらいくらで売れる?」などと訊いてくるので少したじろいでしまった。やはりここはコロンビア、アンデスの山の中なのだ。町ではコカの産地直売も珍しくないという。
走行距離:0km(Total 13,833km)
宿:4,000pesos
出費:食費 4,700pesos
1998年5月20日
San Agustin
昨日の警察の言葉を信じてエクアドル国境の近くへ移動しようとしたのだが、Pitalitoの町へ出る道が閉鎖されていた。そしてトラックが何十台も止まったまま動かない。付近では政府軍かゲリラか知らないが武装した兵士が警備している。バリケードのまわりでは大勢の農民がたむろし、「今日は通れないよ」と言っている。
バリケードの前まで行って止まっていると一気に大衆に囲まれ見せ物のようになった。みんな暇を持て余しているようで色々質問をしてくる。更にはテレビ局の撮影隊と思われる人が、大きなテレビカメラを担いで自分を撮影にかかった。すぐ横にマイクを持ったレポーターが来て、「外国人ツーリストも道を通れなくて困っております。」などと言っていた。
農民ストライキについて近くにいた老人に教えてもらったが、こんな事が年に4回以上も起こるらしい。他の町へ通じる道もすべて閉鎖されるので動きようがないという。試しにここから西へ25km先、Isnosの村からPopayanへ通じる道へ行ってみたが、やはり村の先で道路が閉鎖されていた。 一週間以上も道路を封鎖たら物資の供給は大丈夫なのだろうか?
今日は仕方なく再びSan Agustinの村に戻る。この機会にキャンプでもしようかと思ったが、キャンプ場で料金を聞いたところ一泊5,000ペソとの事。なんとホテルより高いのである。宿泊費節約のためキャンプしようと思うのにホテルより高いのでは意味がない。キャンプは諦め昨日泊まった宿に戻ることにした。
走行距離:66km(Total 13,899km)
宿:4,000pesos
出費:食費 5,900pesos
1998年5月21日
San Agustin
遺跡公園(Parqeu Arqueologico de San Agustin)へ出かけた。村から公園までは3kmほどある坂道を歩いて行く。
道を走っているのは馬や馬車ばかりだ。時々バイクが通るが車はほとんど走っていない。
このあたりの遺跡群は紀元前3,000年以上も前のものらしいが、それ以外のことはほとんど知られていないそうだ。ひととおり遺跡公園と石像の森を見た後、博物館で生活に使われていたという石臼や土器を見る。考古学ファンにはたまらないだろうが、見る目のない自分にはあまりインパクトがない。
昼過ぎ、村に戻ろうとして道を歩いていると、バイクに乗ったおじさんが「村まで2,000ペソで乗せてってやろう」と言ってきた。1,000ペソ(100円)にまけてもらい、3kmの道をバイクで送ってもらう。
昼さがり、いままで入ったことのなかったレストラン「LO MEJOR
DEL SABOR」に行くと店のマスターであるアルバロさんがゲストブックを見せてくれた。結構日本人が来ているようで、何人かの旅行者がメッセージを残している。自分もまるまる1ページ使ってメッセージを書かせてもらうと、お礼に粘土細工のミニチュアカーをくれた。
そして「絵はがきを送って欲しい」というので「じゃあボリビアから送ってあげる」と言うと子供のように喜ぶのだった。(コロンビアの人にしては無邪気だな。)
ここへ来る前までコロンビアは怖いところというイメージがあったが、まるで違う。中米の人々と比べても日本のことをよく知っている人が多く、すれ違いざまに「チーノ!!」と呼ばれることも無い。中米ではアジア人を蔑視しているのか各地で冷たい視線で睨み付けられたが、ここではそんなことはまず無い。
夜になって悪いニュースが飛び込んできた。政府が農民の要求に応えないため、更に一ヶ月以上ストライキが続くらしい。ストライキが続く以上、もちろん道路が閉鎖されたままなので村の外へ出ることができない。
ゲートを迂回するように延びる極悪路を通れば村から出られるかもしれないが、ゲリラに撃たれたのではたまったものではない。しかもゲートひとつすり抜けしたとしても、次の村でまたゲートに当たるのでは仕方ない。
まったく本当にまいったがどうにもならないのだ。しかし、この村は滞在費が安いだけ救われる。このホテルに一ヶ月泊まっても12,000円だ。食事もレストランで300円出せば一食たべられる。この際一ヶ月くらいこの村に住んでも良いかなと思ったりする。
走行距離:0km(Total 13,833km)
宿:4,000pesos
出費:食費 7,700pesos
1998年5月22日〜24日
San Agustin
この村には十数軒のレストランがある。毎回違う店に入って食事していたのだが、とうとう全部のレストランをまわり尽くしてしまった。どの店も似たり寄ったりだが、アルバロの店の定食が一番うまい。
24日、しばらくコーミーダコリエンテ(定食)ばかり食べていたので、たまには違った料理を食べてみようと思い、「Arros
con pollo」を食べてみた。これは中華のチキンライスのようなものだがコロンビアでは大抵のレストランでレギュラーメニューとなっている。鶏肉は大きくきざんであって美味いのだが、ご飯の炒め方がまずい。特に油分が多すぎるので胸やけしそう。しかも量が二食分くらいあるので尚更だ。これは毎日食べられるものではないと思う。
昼過ぎ、ストライキ解除のニュースが入ってきた。これで明日は村から出られるのだ。
走行距離:3km(Total 13,836km)
宿:4,000pesos x 3
出費:食費 25.000pesos (3日分)
1998年5月25日
San Agustin-Mocoa-Pasto-Ipiares
今日は8日ぶりの移動だ。San Agustinを出た後Pitalitoを通り過ぎ、でこぼこのダートを120km走ればMocoaの町だ。
この山岳路の途中で崖崩れがあった。現場の手前ではトラックやバスが二十台ほど待機させられ、パワーショベルでの復旧作業を見守っている。聞くと崖崩れが起こったのは夜間らしく、一番先頭の人は早朝から足止めされているとのこと。既に昼を過ぎているので、気の毒なことに6時間以上も待たされているらしい。しかしラッキーなことに自分が現場へ来てから30分ほどでバイク一台分の道が開かれ、向こう側で待っている地元のバイク二台とともに通してもらうことができた。
Mocoa手前ではポリスの検問があった。いちいち荷物を下ろしてチェックされるので面倒この上ない。検問ついでに道路情報を仕入れるべく警官にあれこれ質問した。しかし当の警官は何も答えず、そばで見ていた通行人が道路状況や山賊の出没状況、距離、所要時間など詳しく教えてくれた。
Mocoaの町周辺には道路標示がほとんど無いのでPasto方面の道は村人に聞き回りながら探すことになる。道標の類が無いという事には苛立つが、若者からお年寄りまでみんな親切に道を教えてくれた。
町を出ると道はいきなり砂利と泥だらけの狭い山道となった。まるで日本の林道そっくり。ここからアンデスの山を越えるのだが、道は断崖絶壁に張り付くように続いている。ガードレールなんか無いので落ちたら100m以上真っ逆さまだ。狭い道にバスやトラックが行き交うので事故も多いらしい。所々には安全祈願のためマリア像が立てられている。日本の地蔵や道祖神のようなものだろう。
この山道の中間地点では濃霧の中からマシンガンをもった兵士が10人ほど出てきて驚いたが、ただの政府軍兵士だった。(一瞬ゲリラかと思った)バイクの書類とパスポートをチェックして通してもらう。政府軍兵士の検問のおかげで、ゲリラや山賊の活動が抑えられていると思うとありがたい。
Mocoaからの75kmは特に険しい山道だった。景色は豪快そのもので、富士の滝沢林道や中津川林道を三倍にスケールアップしたような道。もし東京から200km以内にこんな道があったら、週末はオフロードバイクや四駆マニアでごった返すだろう。結局Pastoまで140kmのうち、舗装部分は20kmだけであった。
走行距離:394km(Total 14,230km)
宿:15,000pesos
出費:食費 4,700pesos
ガソリン7,900 (3.6G) |