エル・チャルテン〜バホ・カラコレス〜コクラネ
El Chalten-Bajo Caracoles-Cochrane
El Chalten (Fitz Roy) エル・チャルテン(フィッツ・ロイ)
![]() Fitz Royの地名はマルビナス(フォークランド)紛争後El Chaltenに改名された。
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1998年12月25日(金曜日) El Calafate-El Chalten カラファテの町から30分ほど走ったところで道は北の方へ分岐する。ここから北へ延びる砂利道「ルタ40」の始まりだ。何もない乾燥した荒野で時々見るのは物凄い勢いで駆けるニャンドゥー(駝鳥の一種)やグアナコ、キツネだけ。 走行距離279km(Total 44,643km) 1998年12月26日(土曜日) El Chalten 夏の短いパタゴニアは夏のアラスカ同様、この時期に世界中から旅行者が集まっている。村のキャンプ場では自転車旅行者やバックパッカーでいっぱいだ。 ここのキャンプ場ではブエノスアイレスからトランザルプ二台でやって来たアルゼンチン人、フェデリコさんらにも会った。彼らはクリスマス休暇を利用してパタゴニアをツーリングしている。 走行距離km(Total 44,643km) 1998年12月27日(日曜日) El Chalten-Bajo Caracoles フェデリコたちを見送ったあと、ドイツ人ライダーアッシムさん、ハンスさんに別れを告げルタ40の本線へ戻る。この道は、ほとんど何もない荒野に続く砂利道の幹線道路なのだが、所々小さなホテルやエスタンシアがある。その中の一つにホテル・ラ・レオナという小さな宿があるのだが、今回僕はそこへ宛てられた一枚の封書を届ける使命があった。 その封書とは一年前にここを訪れた友人「走じろうさん」が、帰国後日本から手紙と写真を送ろうとしたものなのだが、残念ながら宛先不明瞭なため日本へ送り返されてしまった。それで今回、 「国際バイク便にお任せを!」ということで僕が代わりに直接届けることになったわけ。 さて、話はパタゴニア、ホテル・ラ・レオナに戻る。 走じろうさんから託された手紙はもう一通ある。ここから更に200kmほど北上したところに「エスタンシア・ラ・シベリア」という宿があり、そこにホセさんという人がいる事になっているらしい。もう一通の手紙はそのホセさんに宛てられたもの。トレスラゴスで給油した後ルタ40を北上、しかしエスタンシア・ラ・シベリアに到着したまでは良かったが、中はガランとしていた。横の家から出てきたおじさんの話によると、もうホセさんはここにいないらしい。走じろうさんの封書に同封されている写真では旅行者のメッセージがたくさん張り付けられた壁があるのだが、同じ壁であろうと思われる場所はすべてのメッセージや手紙が剥がされさっぱりとしていた。残念だが、おじさんにホセさん宛の手紙を預けエスタンシア・ラ・シベリアを後にする。 さらに200km北上、バホ・カラコレスのガソリンスタンド・兼雑貨屋・兼ホテルでフェデリコさんたちに再会した。彼らもこの村でキャンプするとのこと、村人のすすめで廃屋の庭を借り三人でキャンプ。 走行距離 526km(Total 45,169km) 1998年12月28日(月曜日) Bajo Caracoles-Cochrane ここから幹線道路を外れ約50km、フェデリコたちとクエバス・デ・ラスマノス(手のひらの洞窟)を訪れた。そこには約一万年前インディオが住んでいたという谷があり、付近の岩壁にたくさんの手のひらが描かれているという。 ルタ40を北へ向かうフェデリコたちと別れ、自分は西へ進路を変える。ここから約100km行くとチリへ抜ける国境、「Paso
Roballos」が開いているはずだ。バホカラコレスでもう一度給油するついでにスタンドのオヤジに国境が開いていることを確認する。話によるとこの時期、あの国境は問題なく通れるとのこと。 走行距離 287km(Argentina196km)(Total 45,456km) 1998年12月29日(火曜日) Cochrane 今日は一日停滞。コクラネは歩けば10分くらいで見て回れるような小さな町。最近自炊ばかりしていたのでレストランで焼き魚「ぺへレイ」を食べた。白身魚だが身に歯ごたえがあり味も上々。実にうまい魚だ。 走行距離 0km(Total 45,456km) |