Uyuni-Laguna Verde-Iquique(Chile)
ウユニ〜ラグナベルデ〜イキケ
(チリ)

98090700.jpg (17346 バイト)

Salar de Uyuni ウユニ塩湖 - 標高3,665メートルのドライレイク

98090601.jpg (5017 バイト)
 砂嵐で視界が10メートル以下になる。

98090602.jpg (8992 バイト)
 こんな僻地でもインターネットが利用できる。

98090701.jpg (10107 バイト)
 干上がった泥沼。

98090702.jpg (7862 バイト)
 干上がった塩湖の表面。

98090703.jpg (6630 バイト)
 地平線の彼方まで塩の大地。

98090704.jpg (8256 バイト)
 自然の造形。

98090705.jpg (9650 バイト)
 湖にピンクフラミンゴの群。

98090801.jpg (4868 バイト)
 砂漠の中でキャンプ。夜は氷点下18度まで下がった。

98090802.jpg (7256 バイト)
Arbol de Piedra - 火山の噴火で出来た奇岩。

98090803.jpg (7766 バイト)
Laguna Colorada

98090804.jpg (7876 バイト)
 砂漠の中に温泉が湧き出す。

98090805.jpg (6983 バイト)
 行程にたくさんの湖があった。

98090806.jpg (9093 バイト)
 標高4,000m以上の高原平野にピストが続く。

98090807.jpg (6205 バイト)
Laguna Verde

98090901.jpg (7132 バイト)
 チリへ入国。国境を越えてすぐにガードレール、警告標識付の舗装道路が出現。

98091101.jpg (5951 バイト)
 イキケの街とチリ国旗。

98091201.jpg (10415 バイト)
 ウユニ塩湖・インカワシ島で飼われている人なつっこいリャマ。

98091202.jpg (11241 バイト)
 インカワシ島で飼われている鷹。

98091203.jpg (12658 バイト)
 インカワシ島はサボテンだらけ。

98091204.jpg (6506 バイト)
 塩のブロックで造ったホテル。

98091205.jpg (9797 バイト)
 椅子、テーブルも塩造り。

98091206.jpg (6505 バイト)
 塩のリャマ。

1998年9月6日

La Paz-Oruro-Uyuni

 オルロから約 100kmはきれいな舗装道路が続いたが、やがて舗装道路は途切れ、砂の深いピストとなった。砂漠の中に四輪の轍が枝分かれして走っているので、どれが本線かわからない場合が多い。地図とコンパスを見ながら絶えず方向を確認していないととんでもないところに行ってしまいそう。

 地平線の彼方に黄色い空が見える。やがて西から強風が吹き荒れ砂嵐となった。細かい砂が舞い上がり、昼間なのに薄暗くなる。視界は平均 50メートル程度だろうか、悪いときは視界が数十センチになるので前に進むこともできない。口の中がジャリジャリし、砂がゴーグルの隙間から目に入る。全身砂まみれ。

走行距離:607km(21,918km)
宿: 15bolivianos
出費:食費 35.5bolivianos
   ガソリン 34bolivianos(14L)
   有料道路 17bolivianos


1998年9月7日

Uyuni-Laguna Colorada

 ドライレイクを横断する道はウユニから 30kmほど北のコルチャニ村から出ているが、道路を無視してウユニから直接ドライレイクの中に突き進む。
 道じゃないところをGPSレシーバーでナビゲーションしながら走行、まさに塩の海の航海だ。30kmほど進むと、そこはまわり 360度地平線の見える景色となった。
 ここからウユニ塩湖の真ん中辺に浮かぶ「魚島」へ行こうと思ったのだが、GPSもコンパスも見ないで適当に走っていると塩湖の南端についてしまった。仕方ないが魚島は帰路に立ち寄るとして、成り行きにまかせ真っ直ぐラグナベルデを目指すことにする。

 ラグナベルデへの道はあって無いようなもの。砂漠の中に四輪の轍が無数に延びている。線路を横切りカルチャ村で給油した後、サンアグスチン村、アロータ村を経由して更に南を目指す。道中多くの湖があり、それぞれピンクフラミンゴが群れている。

 今日の予定ではラグナベルデまで行くつもりだったが、砂の深い砂漠道のため思ったより距離が延びない。その上何度も道に迷い、いちいち地図とGPSレシーバーを出し現在地を確認しながら走っているので、進むのにやたら時間がかかる。結局今日はラグナベルデの 100km手前にあるラグナコロラダにさえたどり着かぬうちに日が沈んでしまった。
 夜、砂漠の中を走るのは遭難の危険があるので、今日は適当な場所でキャンプする事にした。しかし日没後気温はぐんぐん下がり、二枚重ねの寝袋でも耐えられないほどの寒さとなった。テントの中も氷点下10度近くまで下がり、一晩中ガタガタ震えながら過ごす。下手に眠ると本当に凍死する気温だ。こんな時はたき火を焚いて暖をとりたいところだが、まわり一面砂の海なので燃やすものが何もない。はたして朝まで生きていられるだろうか?

走行距離:335km(22,253km)
宿:ブッシュキャンプ
出費:食費 15bolivianos
   ガソリン 35bolivianos(14L)
   ガソリン 17.5bolivianos(5L)


1998年9月8日

Laguna Colorada-Laguna Verde

 朝方陽が昇ってテント内が暖まる頃、一時間ほど浅い眠りに就いた。その後起きて気がつくとボトル入りの飲み水がガチガチに凍っている。寝袋から這い出してテントを撤収した頃には既に陽が頭上に昇り、時刻も十時を過ぎていた。

 火山の噴火でできた奇岩「アルボル・デ・ピエドラ」を通り、更に進むと水面が赤い湖に出た。「ラグナコロラダ」である。塩分が結晶してできた白と湖面の赤が不思議な風景を作り出している。この湖の畔に数軒の宿があり、食堂で温かいスープを飲むことができた。

 このあたり一帯は火山活動が続いているので各所で温泉がわいている。気温が低いので温泉に飛び込みたくなるが、そのほとんどは泥の熱湯だ。

 山を越え丘を越え、道無き道をしばらく走りラグナベルデ着。所々真っ白い塩の浮いている薄緑色の湖にフラミンゴが数十羽群れている。言葉では表現できない美しさだ。写真を撮ろうにもあまりにもスケールが大きいためフレームに入りきらない。そういえば南米を二年以上走っている水野さんも南米で一番美しい場所だと絶賛していたっけ。

 ラグナベルデの湖畔にコメドール(食堂)があった。そして粗末ながらもホテルがある。今日はここで一泊過ごす事にしようか。
「寒いので脂ののったビフテキが食べたい、いや、この際リャマの肉でもなんでもいいや。」
 しかし久しぶりにまともな食事ができるという期待は大きく外れ昼食のメニューはスープとコーヒーしか出てこない。しかも夜もスープとコーヒーのみ。朝はパン二枚とコーヒーだけ。驚いたことに、この食堂では国境警備兵も同じ食事をしている。任期は二ヶ月間というが、こんな寒いところで粗食に耐えながらよく体が保つものだと感心してしまう。

 ラグナベルデは昨日キャンプしたところよりも標高が高いので更に寒い。外は強風が吹き荒れ、すきま風が部屋に吹き込み、夜間氷点下20度近くまで冷え込んだ。宿のベッドには毛布が五枚かかっていたが、寝袋二枚重ねの上にすべての毛布を掛けて寝たがそれでも寒かった。

走行距離:148km(22,401km)
宿: Laguna Verde 15bolivianos
出費:食費 37bolivianos
   ガソリン 35bolivianos(10L)


1998年9月9日

Lagna Verde-San Pedro de Atacama-Iquique

 朝、エンジンをかけようとするのだがオイル粘度が硬くなっているようでなかなか始動しない。それでセルを何度も回しているうちに終いにはセルが回らないほどバッテリーが弱ってしまった。氷点下20度の低温に一晩さらした結果だ。これでは押しがけしても無駄。
 しかし一時間ほど太陽の光に当てたり、下から火であぶってエンジンを暖めたらなんとか始動させることができた。ホッと一安心。

 ここからチリ国境までは僅か 7kmほど。当初、ラグナベルデからボリビア国内を東北の方へ進もうと考えていたが、この寒さと飢え、ガソリン補給の問題があり予定を変えて一度チリへ抜ける事にした。しかしここからチリへ入国する予定ではなかったのでウユニのイミグレで出手続きしていないのが難だ。このまま国境を越えると不法出国となってしまう。

 罪悪感を背負いつつ、チリ〜ボリビア国境の峠に至る。国境には石造りの小屋があるが警備兵も誰もいないのでそのまま越境。チリに入って十キロほど下ると舗装路となった。こんな山の中まで舗装道路を作っていることが驚きだ。しかもガードレールや警告標識までついている。国力の違いなのだろうが、チリという国は予想以上に道路整備が進んでいるらしい。

 無人の国境を越えて37km先、斜面をぐんぐん下り、サンペドロデアタカマにたどり着いた。この町は標高 2,500m、気温が高く暖かい。
 街の入り口にあるイミグレで入国手続きしようとするが、ボリビアの出国スタンプがないことを理由にチリの入国スタンプをもらえなかった。係官は文句言いながらパスポートを投げ返し、「ボリビアに戻れ」と言う。国境の意味が薄れつつある時代、スタンプひとつ無いだけのことに、どれだけの意味があるのだろう。現にアメリカ、カナダ、メキシコの国境では出国スタンプを省略しているではないか。予想していたのでさほどショックはなかったが、係官の指示に従えばここからイミグレのあるウユニまで道無き道を500kmも戻らなければならない。でも
「はい、すいませんでした。じゃあウユニへ戻ります。」
と言って、こっそりチリ領内の海岸部へ向かって走りだす。

 サンペドロの町でドルをチリの通貨「ペソ」に両替した後、そのまま海岸部へ降りる道をひた走る。広大なアタカマ砂漠の真ん中にきれいな舗装道路が真っ直ぐ続いている。カマラの町を経由してそのまま更に海岸の港町「トコピージャ」へ。海を見るのは久しぶりだ。海抜ゼロメートル近くまで降りてきたというのに寒流の影響で気温が低く、海霧がかかっている。太平洋に夕日が沈みつつある時刻だが、陽が霧に隠れて見えない。
 海岸を北上すること 200km、夜になってイキケの町に到着。町の中心部で安そうな宿に入ったのだが、一泊17米ドルもするので驚いた。ボリビアでは一泊2〜3ドル程度の宿ばかり泊まっていたので尚更高く感じる。
 チリに入って気がついたのだが日本やアメリカ合衆国並みにきれいな車が走っていて、町並みも道路も先進国のように整っている。道行く人もみんなきれいな格好をし、会社の帰りだろうか、スーツにネクタイ姿の人が多い。これでは生活費が高いのは致し方ないだろう。今日は久しぶりにカルチャーショックを受けた。

走行距離:612km(23,013km)
宿: 7,000pesos 駐車場 1,500pesos
出費:食費 5bolivianos, 3,100pesos
   ガソリン 2,900pesos(11L)

両替 TC/US$50 => 21,250pesos


1998年9月10日

Iquique

 港町イキケは免税の町として知られている。各国から輸入製品が入り、街の一角にはそれらを扱う店が集中している場所がある。カメラとタイヤを求めてその免税店街(ZOFRI)へ繰り出した。チリでは乗り合いタクシーが走っていて、交差点で行き先の書かれたタクシーを拾えば市内をUS$0.50程度で移動することができる。
 さて、コレクティブタクシーは約十分ほど走ったところで免税店街に到着。最初ペルーやボリビアのメルカドのような所を想像していたのだが、現地について驚いた。そこは超近代的なショッピングモールに数え切れないほどの免税店が店を出しているのだ。これはアメリカ各地で見た大型ショッピングモールの比ではない。店舗数が桁外れに多い。輸入品を売る店の他にもチリ中ほとんどの銀行やDHLなど国際宅配便の営業所もある。まるで南米大陸の一角であることが信じられないくらい。

 カメラを扱っている店だけでも十数店あるのだが、ある店ではなんと、今まで使っていたがペルー・ボリビア国境の道で故障したカメラと同じ型のカメラ(Pentax Espio 928)がUS$190で売られていた。日本で買ったときは50,000円も出したのにここでは半額以下で買えるのだ。迷わず購入。
 またモールの一角にブリジストン、ミシェラン、ピレリーのタイヤショップがあり、そこでは大型トラックのタイヤからバイクのタイヤまで売られている。ピレリーのショップでリヤタイヤはMT-21、フロントはMT-16を購入。両方あわせてもUS$70程度とかなり安く買うことが出来た。ラパスのバイク屋だと前後でUS$130で売られていたのでUS$60浮いた計算だ。チリは宿泊費、食費が高いが、その分を差し引いてもイキケへ来た甲斐があった。

 午後になってホテルへ帰り、ガレージでタイヤを交換した。これからアマゾン横断に向け、バイクのコンディションを整えているのだが、今回フロントタイヤは泥はけ性の良い「MT-16ガラクロス」を選んだ。「MT-21」は耐久性があるが泥地では目詰まりしやすい。

走行距離:0km(23,013km)
宿: 7,000pesos 駐車場 1,500pesos
出費:食費 3,490pesos
   カメラ 89,900pesos
   タイヤ 15,000pesos(F) 18,000pesos(R)
   フィルム三本 11,700pesos
   電熱コイル 1,000pesos
   タクシー 200pesos 1,000pesos
   食料 6,900pesos

両替 100,000pesos(Citi)


1998年9月11日

Iquique-Cancosa-Llica

 パンアメリカンハイウェイを北へ 30分ほど走ったところから東にそれ、アタカマ砂漠を横切りにかかる。海抜近くから標高4,000メートルまで一気に駆け上がるが、高山病の症状がほとんどでない。一ヶ月以上高所にいたので体がまだ慣れているのだろう。

 今回はやむを得ず不法入国してしまったので、ボリビアに戻るときもメジャーな国境を通らず、人のいないマイナーな国境を通る必要があった。ウユニ塩湖の西に出る峠を探し、ほとんど廃道になったような道をつたって越境。チリ側、国境近くの村「カンコーサ」もほとんどゴーストタウンのように廃れ、確認できた範囲では老夫婦が細々と暮らしているだけのようだった。ボリビア側の最初の村「ベジャビスタ」では軍の検問があったがイキケから来たなんて言うと面倒なことになるので、
「ラグナベルデからウユニに戻る途中、道に迷ってチリ領に入ってしまった。」と答え通してもらう。

 そこからウユニ塩湖西端の村「リカ」に向かう道で日が暮れてしまった。名前は知らないが、ひときわ明るい星が進行方向である東の空の輝いていた。まるで自分を誘導してくれているかのよう。道があって無いような砂漠の中を星でナビゲーションしながら村にたどり着く。
 考えてみたら今日、パンアメリカンハイウェイを外れてここまで約 300kmの間、ロバに乗った老人を見た以外、たった一台の車ともすれ違わなかった。
 この村は自家発電らしく、遠くエンジンの音が消えたと同時に村中の電灯が消えた。掘っ建て小屋のような粗末な宿を見つけ、毛布六枚で夜を明かす。

走行距離:355km(チリ282km,ボリビア73km)(Total 23,368km)
宿: 12bolivianos
出費:食費 1,900pesos
   ガソリン 4,800pesos(16L)


1998年9月12日

Llica-Isla de pescado-Uyuni

 燃料屋でバケツに汲んできてもらったガソリンを給油した後、リカから再びウユニ塩湖に入る。このドライレイクの真ん中辺には「魚島」という山があり、ウユニからのツアーでは必ず立ち寄る名所となっている。GPSレシーバーを使い、約80km轍も何もない所を走り島に到着。島には高さ五メートル以上のサボテンが密生し、不思議な風景。
 またリャマや鷹などが飼われていて、観光客を喜ばせている。リャマはかなり人になれている様子。昼食にパンをかじっていると餌をねだって目の前 20センチの至近距離まで迫ってくる。
 魚島を後に再びウユニの町を目指して走り出す。コルチャニ村の手前では、塩のブロックで造ったホテルが建っていた。造りはボリビアでよく見られるような日干しレンガの家と似たようなもの。

 昼過ぎにウユニ着。驚いたことにこんな辺境にある町でさえもインターネットが利用できる施設があった。しかも通りの真ん中の中央分離帯にあるところが凄い。PCは二台だけだが、モデムによるダイヤルアップでここから100km以上離れたポトシの町に接続している。通信環境はやはりそれなりで、係員が何度も接続に失敗しながら5〜6回目にしてやっと接続することができた。45分間利用して15ボリビアーノス(約US$3)。

走行距離:194km(Total 23,562km)
宿:Hostal Europa 20bolivianos
出費:食費 36bolivianos
   インターネットカフェ 15bolivianos

両替 10,000pesos => 105bolivianos


1998年9月13日

Uyuni

 ウユニの町でゆっくり過ごす。しかしウユニは寒い。日中の気温は十度にも満たづ、夜間は氷点下にまで冷え込む。

走行距離:0km(Total 23,562km)
宿: 20bolivianos
出費:食費 29bolivianos


Back / Next


Countries INDEX / Travelogue INDEX