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北米大陸一周五カ国64000kmの記録

北米大陸一周ツーリングの概略

現地でバイクを買う

グランドキャニオンまで慣らし運転に行く

北極圏めざして北上

大陸最東端へ

アメリカ合衆国本土最南端へ

再び大陸横断

メキシコ縦断

グァテマラ縦断

ベリーズを抜け、再びメキシコへ

メキシコでバイクを売り帰国


1995年5月から始めた旅はアメリカ合衆国、カナダを時計回りに一周し、メキシコ国境を越えグァテマラまで縦断し、グァテマラからはユカタン半島を北へ走 り、ベリーズという小さな国をまわりカリブ海の沿岸まで進んだ。予定ではそれ から再びバハカリフォルニアのラパスまで戻って友達の家にバイクを預けてから一時帰国しようと思った。しかしラパスの南4000kmの地点でエンジントラブルにより走行不能にな ってしまった。仕方なくメキシコ国内でバイクを売り1996年4月帰国した。

 現地でバイクを買う
1995年5月、千歳発ソウル経由サンフランシスコ行きの飛行機でアメリカ合衆国に降り立った私はその足でバイク屋へと向かった。HONDA '96XR650Lを本体価 格5200ドル、税金、保険、諸費用、オプションパーツを含め6500ドル(当時約580000 円)で購入した。この国ではバイクや車は買ったその日に乗って帰ることがで きる。ナンバープレートは3週間後に発送されてきたのだが、法律では購入者で あることの証明書を携帯していればナンバーがなくても公道を走れるのである。

  グランドキャニオンまで慣らし運転に行く
大容量のガソリンタンクとナンバープレートの発行を待っている間にグランドキャニオンまで慣らし運転に行くことにした。グランドキャニオンを含め 、 アメリカの国立公園 は中西部に集中している。ヨセミテ国立公園に始まり、セコイアの森、ザイオ ンバレー、アーチーズ等、3週間で数多くのナショナルパークやナショナルモニ ュメントを見て回ることができた。

  北極圏めざして北上
慣らしを兼ねた3週間の小旅行から戻りバイク屋に行く。ガソリンタンク等の パーツは入荷していたがナンバープレートがまだ来ていない。いつ来るかわからないものを待っていられないのでナンバープレートなしでアラスカめざして走り出 す。カリフォルニアから西海岸をオレゴン州、ワシントン州と通りカナダへ。カ ナダからはバックロードばかり走り北上する。北上すれば寒くなるだろうと思っ ていたが夏季節の移動速度とほぼ同じくらいで移動しているらしく気温は一定だ 。北極圏へ入るルートはカナダ側のデンプスターハイウェイとアラスカ側のダル トンハイウェイの二つがある。せっかく来たのだから両方のルートをそれぞれ往復走ることにした。どちらも砂利道が800km以上続き、無給油区間も400km以上ある。初めてのツンドラ地帯の走行だ。白夜なので24時間いつでも行動できるのがうれしい。カナダではエスキモーの村を訪ね、エスキモーのおやじたちとしばしば話をした。風貌は日本人に似ているがやたらプライドが高い印象があった。アラスカのダルトンハイウェイはパイプラインに併走し北極海まで砂利道が続いてい る。北極圏に突入、ブルックス山脈を越えノーススロープ側へ降りるとさすがに寒くなる。終点 の北緯70度線近くになると気温は氷点下近くまで下がり小雪の中の走行となった 。ダルトンハイウェイの終点の町デッドホースはオイルフィールドの基地である 。無機的な原油採掘施設が立ち並ぶだけで町としての機能は皆無だ。

  大陸最東端へ
アラスカでは北米大陸最高峰マッキンリーで有名なデナリ国立公園を訪れた。 マッキンリーは残念ながら厚い雲に覆われ見ることができなかったが代わりに多くの野生動物に出会うことができた。フェアバンクスでは局留めで送ってもらっ たナンバープレートをつけ、バイクの消耗部品を交換し、カナダ横断の準備をし た。やがて短い夏も終わりに近づいた頃、アラスカの大地を後にする。カナダ国境を越えユーコン準州からノースウェスト準州へ入り州都イエローナイフを目指す。州都とはいってもこの町に入る陸路は砂利道一本しかないのである。原野に細々と続く砂利道を何百キロも走り町へ向かう。だが砂利道の行き着く先に想像 する小さな町とは反対にイエローナイフは大きなビルが建ち並ぶ近代的な町であった。こんな原野の中に都市があるのが不思議だった。居心地のいいキャンプ場で3日間のんびり過ごし再びカナダ最東端を目指して走り出す。マッケンジーハ イウェイでは毎日熊に会いながらの移動だった。カナディアンロッキーの大氷河 、イエローストーンの間欠泉、マウントラッシュモア、すべてはいつか本で読ん だ憧れの地だ。サウスダコタ州ではマシントラブルをきっかけに生涯忘れ得ぬ友達ができた。バイク屋で働いていたブライアンはどこの馬の骨かもわからない外国人旅行者を一週間も泊めてくれたのだ。ブライアンやその友達と過ごす毎日が楽しく、定住を考えるほどだった。別れがつらかったが再び路上の人となり、更に東へ東へと旅を続けた。ナイアガラの滝を訪れたあと、フランス語圏のケベックを通り、大西洋岸を目指す。ついには大陸横断10,000kmの末、ニューファンドランド島スピアー岬へ到着。時期はすでに晩秋となり、冷たい雨にあたったが大陸横断達成に熱い祝杯をあげた。

  アメリカ合衆国本土最南端へ
ニューファンドランド島1000kmを一日で横断しフェリーに乗る。ノバスコシア 州、ニューブランズウィック州を経て合衆国へ入国。3回目のアメリカ入国であ る。東部の町をポートランド、ボストン、ニューヨーク、ワシントン、アトラン タ、マイアミへと移動。
ニューヨークは疲れた町という印象を受けた。何もかもが煤けて見える。ハイ ウェイを走る葬列の車、落書きだらけの壁や標識、道ばたにたたずむホームレス 。道行く車の運転はみな荒っぽく、何度もヒヤッとさせられた。居眠り運転によ る自爆事故も瞬間を目の当たりにした。雰囲気は西のロスアンゼルスやサンフラ ンシスコとは明らかに違う。
都会の喧噪を離れ、アパラチア山脈の尾根伝いに続くパークウェイを走る。な だらかな山並みは日本を思い出させた。山を下りてアトランタへ。アトランタで はエンジンが焼き付くという壊滅的なトラブルが起きた。だが信じられないこと にメーカーの保証で無料で修理してもらうことができた。新車のように蘇ったバ イクで更に南へ走る。そして10月、アメリカ合衆国本土最南端の地キーウェスト 到着。サンダーストーム、ハリケーン、竜巻の季節の中だった。

  再び大陸横断
フロリダ州からアラバマ州へ抜けようとしたとき、ハリケーンの通過を待つため足止めされた。「オパール」と命名された大型ハリケーンはアラバマ州南部、フロリダ州の北部のメキシコ湾岸を直撃し、町や森を引っかき回していった。直径1メートルもあるような樹木があちこちで倒れている。何軒もの家屋が倒壊し、車はひっくり返され、町中の看板はほとんど引き剥がされている。陸地に10トンはありそうな大きな船が打ち上げられている場面もあった。ハリケーンの規模は日本の台風なんてものではない。
ハリケーン直後のメキシコ湾岸を抜け、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、そしてカリフォルニアへと戻る。これで合衆国とカナダを一周したことになった。
走行距離がすでに50000kmを越えたバイクだが、次のメキシコ行きに備え整備した。

 

メキシコ縦断 
95年11月、国境線をまたぎメキシコ側国境の町ティワナに入る。町の様子を一言で伝えると「ゴミ箱をひっくり返したような」といえばわかるだろうか。混沌、乱雑、雑然、道路はぼこぼこ、標識は落書きで埋め尽くされ、それを支える支柱は曲がりくねり、走っている車もぼこぼこで錆だらけのポンコツばかり。バックミラー、ウインカーのない車が多く、中にはウィンドシールドやヘッドライトのない車、ボンネットやドアさえない車が走っている。エンジンも外観に比例してくたびれているらしく、マフラーから大量の煙を吐きながら走る車を頻繁に見かける。まるで蒸気機関車だ。車や人に混じって牛、馬、犬、豚、鶏も歩いている。交通ルールなんかあってもないようなものだ。信号機は点燈していないものがあるし、作動していても信号無視する人がいる。 赤信号で止まれば目がギラギラした物売りたちが周りを取り囲み買え買えと迫ってくる。老いた乞食が金くれと手を出してくる。車の窓拭き屋、大道芸人たちが道を縦横に歩く。町の喧噪に重なってスペイン語のだみ声が響きわたる。スラムの物陰では飢えた子供の目が光る。風景はまるで戦場のようだ。道の両側には大小の古い建物や屋台がひしめき合い、壁はペンキがまだら模様に塗られ、つぎはぎだらけ傷だらけ、今にも崩れそう。まるで弱肉強食の世界だ。少しでも油断を見せたら最後、骨だけにされそうな雰囲気だ。その時は町の迫力に圧倒されてすっかり参ってしまった。「世界一周だなんてどうしてこんな馬鹿なことを始めてしまったのだろうか」 と思った。先進国、それも英語の通じるところを走っているうちはよかった。だが世界を見渡してみると英語の通じない第三世界の方が多いのだ。こんなことやめてすぐ日本に飛んで帰りたいと思った。だけど好奇心が恐怖心を上回り、気がついたら更に南へ向かって走っていた。 バハカリフォルニア半島の南端の町ラパスではスペイン語を習得するために一軒家を借りて住み始めた(家具、冷蔵庫、テレビ付き3LDKの家が2万円ほどで借りることができた)。平日は大学の先生から基礎的な文法を習い、休みの日は町に出てその辺のメキシコ人を相手に会話の練習をした。タコス屋の屋台のオヤジ、靴磨きの少年、悪徳ポリス、み んなスペイン語の先生だ。こうして毎日を過ごしているうちに滞在一ヶ月の予定が3ヶ月になってしまった。おかげである程度必要な会話ができるようになり、ラテン世界の雰囲にも慣れることができた。名残惜しいが町に別れを告げ旅を再開、更に南下の道をたどってバイクを走らせる日々が始まる。そしてメキシコ一万キロの縦断行の果てにグァテマラ国境へ至った。
 グァテマラ縦断
国境を越えたあたりからバイクが壊れる前兆が現れ始める。 96年3月、つぎはぎだらけのガタガタ道をグァテマラシティへと走る。この国に入ってから重装備の軍人を頻繁に見るようになった。政府軍の警備兵とのことで、みんな迷彩服姿に自動小銃を持っている。この辺りは反政府ゲリラの活動地域で、道を通行する車やトラックが度々襲撃されているらしい。グァテマラ国境を越え最初のガソリン給油直後にエンストがあり、以後ある程度の時間をおいて唐突にエンストが起きるようになった。セルを数秒回せば再びエンジンはかかるのだがその時に、かなりの確率でバックファイアーが発生する。その「パン」と言う音が銃声そっくりなので辺りにいる人は驚いて振り返る。走行距離を増すほどにエンストが起きる間隔が短くなっていくようだ。原因として考えられるのはガソリンの質によるものだと思う。グァテマラではガソリンは無鉛化されておらず、ガソリンスタンドで買えるのは全て有鉛ガソリンなのだ。オクタン価も低いため混合気が爆発しなくなるのだろう。先が思いやられる。山岳地帯を走行中、警備兵が何人か行軍している近くでエンストした。慌ててエンジンをかけようとセルを回したらバックファイアーが発生、背後で銃声がしたと思ったのか数人の兵隊が慌てて自動小銃の銃口を向けてきた。危なかった。幸いただのバイク旅行者、ただのバックファイアーだと気づいてくれたのか弾丸は飛んでこなかった。こんな所で調子の悪いバイクに乗っていたら命に関わる。 何とも危なっかしい話だと思うかもしれないけどこうして旅を続けていくとあまり小さな事では驚かなくなるものだ。ある小さな村に泊まっているときも夜中にすぐ近くで大砲の音が聞こえて起きたことがあった。翌朝、村人に訊いてみたら、あれはグァテマラ政府軍が威嚇するため、ゲリラの村の近くに砲弾を撃ち込んでいるとの事だった。その時わかったのだがその村は政府軍の勢力地とゲリラの支配地域との境目付近だったらしい。日本にいるとこんな話聞いたってぴんとこないだろうけど現実の出来事なのだ。

 ベリーズを抜け、再びメキシコへ
グァテマラ北部の大遺跡群「TIKAL」を訪れた後、ベリーズへ。ベリーズは北米大陸の一部だが民族構成はカリブ海の島々のように黒人が多い。国語は英語だが訛った英語で聞き取りにくい。バイクを持ち込むのに一日あたり10ベリーズドル(日本円で約500円)の保険料がかかる上、ホテル代などの物価も高いので、結局一泊二日で通り抜けてしまった。
メキシコに再入国するとき書類の紛失でちょっとしたトラブルが起きたが一日で国境を通過。バイクの調子は更に悪くなり、朝出発するのに30分もかかる有様だ。
こんな調子でユカタン半島を縦断しなんとかカンクーンまで走って来た。バイクも60000Km以上走れば調子悪くなるのも無理ない。

 メキシコでバイクを売り帰国
4月、ユカタン半島、カンクーンを最終地点に11ヶ月間64000kmの北米大陸一周旅行がおわった。完全に故障してしまったバイクは現地のショップに300 ドルで売り、日本へ帰って来てしまった。予定ではは5月中旬まで走っているはずだったのだけどこうなっては仕方ない。故障の原因は粗悪オイルと有鉛ガソリンで酷使したためで、バルブまわりと、ピストンリングはおろか、ピストンそのもの、そしてシリンダーまでもが異常磨耗してしまった。何しろこんな長距離を走ったのは初めての経験だったし、ガソリン、オイルの質まで考慮していなかったのでこういったトラブルに対処できなかった。しかし次回の南米ツーリングに向けて貴重な経験ができたと感じる。


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