外国で出会ったあやしい日本人たち

 外国で出会う日本人は旅行している人も定住している人も
みんな人間的魅力の ある人たちばかりだ。
彼らは時には人生の良き先輩となり、あるいは良き反面教師となってくれた。
また世界のどこかで彼らに会えることを願ってここに紹介す る。


 南米からバイク・自転車を乗り継いで北上してきた。Sさん

 アラスカ・ユーコン河の畔の町サークルにて怪しい二人組がキャンプしていた 。彼等は一ヶ月も前に上流の町を出発し、カヌー・カヤックで川を下ってきたの だ。S氏はなんと一年も前から旅を続けているという。
 
 最初ブラジルでバイクを購入した彼は南米の辺境地帯を走り回る。それが終わったら今度は北米に渡りカナダ・バンクーバーから自転車で2000km北上、ユーコン河上流の町ホワイトホースまで走ってきた。ホワイトホースでカヌーを購入した彼はカヌーに自転車を積み込み、カナダ・アラスカの荒野に流れる大河ユーコンを下り始める。途中ドイ ツ人やU氏等日本人に会う。約一カ月川の上を移動しサークルの町まで流れ着いた。彼の野生味あふれる風貌が印象的だった。

 その後、風の噂によると日本へ帰国した彼は自転車で日本縦断旅行に出かけた 。意外にもそれが終わると結婚したという。氏を知っている者は、彼がやっと身を固める決心がついたと思ったに違いない。だが噂によるとまたアフリカへ旅に行くという。野望果てることなし・・・。


 ユーコン河下りカヤッカー Uさん

 バンクーバーでフェザークラフト(フォールディングカヤック)を購入した彼は、夏の始めにホワイトホースを出発、アラスカに入ったところで鉄砲を買い、狩りと漁をしながら河を下ってきた。最初会ったときはインディアンかエスキモーかと思ったが彼の口から日本語が出てきたときは驚いた。


 日本人カナダ移民 Wさん

 世界一周自転車野郎の渡辺さんとキャンプ地で飯を作っている時、キャンプサイトに泥だらけの汚いロードバイクが入ってきた。リヤシートにはドカシーに包まれた大きな荷物が載っている。その格好を見て「こいつは欧米人でないな」と思った。

 案の定彼はアジアのニホンという国からやってきた旅行者だった。思わず「ニホンからですか。ベトナムからではないのですね」と言いそうになったがやめた。あまりにも東南アジア的な格好で、荷台には豚が積んであっても不思議でない様子だった。


 南バハカリフォルニア大学日本語教師 K・K女史

 私のスペイン語の師である。最初、オフロードレースBaja1000のフィニッシュ を見ているときに出会った。彼女も旅行で来ていたつもりが定住することになっ たうちの一人だ。

 1990年、南米を旅行するための経由地として北アメリカへ渡ってきた。当時スペイン語が少ししか話せなかったため語学学校へ 通うべく、アメリカから国境を越えメキシコへやってきたという。当初、バハ・ カリフォルニア半島からフェリーで本土に渡りメキシコシティーで学校を探す予定だったというが半島南部の地が気に入り、南端の町カボ・サンルーカスに住み始めた。旅費を稼ごうと幼稚園で保母として働き始めた彼女は短期間でスペイン語を覚え、次第に現地のたくさんの人間と知り合うようになった。そして現在の仕事に就く機会にあうことになる。

 当初はカボ・サンルーカスから大学の あるラパスの町までバスで通っていたが、通勤に2時間もかかるためラパスに引っ越してきた。引っ越してきた先がなんとマリーナの桟橋に浮かぶ古船であった というから驚きだ。そして数カ月もの間水上生活していたが、やがて陸地にある アパートへと移った。現在は普通の家に住んでいる。


 17年間海外放浪考古学者 F・F美

 17年前、大学を出たばかりの彼女は単身、イスラエルへと渡った。イスラエルではボランティアとしてキブツ(集団農場)で働き始めたが2年ほど経ってから機会があってメキシコへ渡ることとなる。

 メキシコの大学で考古学の修士号を取得後、メキシコシティで博物館関連の仕事に就いた。しかし数年経って現地の人と結婚、やがて長男が産まれた。それからは主婦業に追われる事となり、考古学からは離れざるをえなくなる。家庭の主婦で一生を終えたくないと判断した彼女は一念発起し、単身南バハ・カリフォルニア州へやってくる。
 州都ラパスに赴任し国立博物館にて考古学の研究を再開した。それからすでに8年の月日が経つが現在も研究にに明け暮れる日々を過ごしている。

 各地のフィールドワークに連れてってもらったが、活発に動き回る姿が印象的だった。


 ダイビングサービス経営 Gさん

 彼は6年ほど前、ロスアンジェルスに単身で渡ってきた。日本でダイビングインストラクターの実績があった彼はダイビングサービスの会社に職を得ることができた。しばらくロスアンゼルスで仕事をしていたが、95年からメキシコ・南バハ・カリフォルニア州ラパスに赴任しアウトドアツアー会社「バハ・エクスペデ ィション」のスタッフとして働いていた。96年に独立、「バハ・シーケスト」な る会社を設立した。
 連絡先は以下の通り。主にダイビングサービスを行っている。
(日本での受付先)レックスツアーズ Tel 03-5474-5481 


 謎のおじさんバイクで北米大陸一周 Iさん

 今回の旅路で出会った日本人の中でも一番あやしい人がこのおじさんである。 ロスアンゼルスでバイク(TW200)を購入した彼はアラスカまで北上した後、カナダを東にノヴァスコシアまで横断、そしてアメリカをロスアンゼルスまで横断し、更にメキシコ・バハカリフォルニア半島を南下。
 ラパスからメキシコ本土に渡るた めフェリーに乗ろうとしたところで彼はトラブルに見舞われた。メキシコ本土に バイクで渡るにはバイクの一時輸入許可をとらなければならない。そのときにク レジットカードが必要なのだが彼は持ってなかった。悪いことに彼はスペイン語どころか英語もほとんどしゃべれない。
 彼に何を説明しても要領を得ないことに しびれを切らした係官が通訳を求めて僕のスペイン語の先生であるK女史に電話をかけてきたのだ。結局彼は収納代行業者を介して500ドルものデポジットをとられて何とか一時輸入許可をを取りつけた。

 ちょうどその時、私はスペイン語のレッスンを受けていたので話を聞いてフェリー乗り場まで駆けつけてみた。バ イクを見て驚いた。TWだ。本人は「短足なので足がとどくバイクを探したらこれしかなかった」と言うが、大陸一周するようなバイクではない。TWはすでに 走行40,000kmを越えクランク、シリンダー回りから異音が出ている。オイルあがりしているのかマフラーからは大量の煙が出ている。
 このボロバイクでメキシコ本土を南下、グァテマラシティまで行くというからすごい。無理に一時輸入し、いつ 壊れるかわからないバイクでグァテマラまで行かなければならない理由はなんだろう。それを訊いても絶対に答えないことが更にあやしい。

 その後、彼は一ヶ月ほどたってからラパスに戻ってきた。話によると往復約 5,000km 走ってグァテマラ・パナハッチェルの村へ行って来たらしい。バイクはラパスへのフェリーの発着点であるマサトランで息絶え、フェリーへは押して乗船した という。バイクは本土から外に出さないことにはデポジットの500ドルが還って こないので棄てるわけにはいかないのだ。彼はバイクをラパス市内のバイク屋に100ペソ(約1300円)で売り、日本へ帰っていった。



 日系メキシコインディオ クレイン ヤスモト

 スペイン語のレッスンを受けている時、インディオらしき血の濃い人物に会っ た。日本語クラスの生徒だろうか、彼は流暢な日本語で話しかけてきた。私は「 日本語上手ですね・・・」と言いかけたが服装から彼が本当の日本人であること に気づいて口を止めた。彼は貧乏である。ラパスから南へ百数十キロ行ったところにあるカボサンルーカスという町に住んでいた。そこでツアーガイドの仕事を していたが上司といがみ合いになりクビになった。アパート代も払えないので部屋を引き払い路頭に迷っていた。

 仕方なくしばらくうちに泊めてやることにした 。彼は暇さえあればケーナを吹いているのであるが、それが凄まじく下手なので ある。おかげで隣に住んでいた大家の気に障り、家賃が大幅値上げになってしまった。

 世界放浪詩人 Mさん

 メキシコシティの日本人宿「ペンションアミーゴ」で出会った。どことなく哀愁漂う人だった。何か暗い陰がつきまっとっているようだが気のせいだろうか。 その後彼から手紙が来たのだがニューヨークに滞在しているという。


 グァテマラで旅行社経営 Iさん

 五十嵐氏の名前を最初に聞いたのはグァテマラシティの日本大使館での事だった。バイクの部品を求めてバイク屋へ行ったときにその隣に日本大使館があることに気づいた。特に用事はなかったが吸い込まれるように大使館に入り、旅の情報を聞いたりした。その時に紹介してもらったのがこの町で旅行会社を経営する五十嵐氏の名前である。

 彼も旅行目的で渡ってきたが永住するパターンにはまっていった一人だ。旅行会社の名前はカクテルツアー。北部の遺跡群「TIKAL」を はじめグァテマラ全域の観光ガイドを行う。日本人専用の民宿も経営しており一 泊10ドルで泊まることができる。
連絡先は次の通り。グァテマラ滞在の際は是非利用しよう。

19 Calle 18-14 , Zona 10  Tel & Fax 632330


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