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伊原くんのホンダゴリラ(50cc)で世界一周 !!
 旅先からの手紙

2000年10月1日 ボリビア 恐怖のバス旅行記

 9月20日、僕はゴリラをラパスのホテルに置き、コパカバーナを目指してバスに乗った。コパカバーナは、ラパスからわずか153km離れたペルーとの国境の静かな町だ。ペルーからの入国の際、既に一度ゴリラで訪れている。ボリビアでの滞在日数が、許可された30日間に近づいてきたので新たな許可を国境で取得するための日帰りバス旅行の予定だった。
 ラパス市内にもイミグレーションオフィスがあり、ビザの延長ができると言うことだったが、延長期かかる費用は一月毎にUS$20が必要だ。国境までバスで新たな滞在許可を取りに行った方が安くつく。金はないが時間はある貧乏旅行者は、そんな手間を惜しまない。(ちなみにボリビアへの陸路入国旅行者には国籍に関わらず30日間の滞在許可しか与えられない。賄賂を審査官に要求された欧米人旅行者にも会った。US$20も払ったとか....Tenga mucho cuidado en la frontera !!)
 ただ、このバスの旅にでるにあたって気になることがあった。現在、ボリビアではラパスで行われている教師達のデモとは別にもう一つ大きな問題がある。
 ボリビアは日本の三倍もの広い土地を持ち、地方ではたくさんの農地が見られる。ところが4000mものアンデス山脈に広がる畑には、乾期になると雨が全く降らず、農作にはたくさんの水を必要とする。僕の見たアンデス山中の畑には緑は少なく、まるで砂漠のように乾ききったものばかりだった。
 しかし、現在ボリビア政府のとろうとしている政策は、そんな農民達を苦しめるものであった。今まで無料だった農業用水を有料化しようというのだ。
 そこで農民達は道路封鎖というストライキにでた。9月18日からボリビア中の道路に石や土、ガラスの破片のバリケードをつくり、交通を完全に麻痺させている。
 ところがあるバス会社を訪れたところ、そんな状態にも関わらずコパカバーナ行きのバスを運行しているという。料金は35ボリビアーノス(US$5.50)。普通の料金よりも割り増しされているようだがそれでもラパスのイミグレーションオフィスでビザを延長することを思えば安いのだ。
 それにしても、道路は完全に封鎖されているというのに、一体どうやってコパカバーナまで行くのだろう。疑問に思い運転手に尋ねると、
「Hay otro lado ! (別の道がある)」
という。すっかりその時は安心したのだが、それから恐怖のバス旅行が始まるとは知る余地もなかった....。

 ラパスから20km離れたラハの町までは、この旅は順調に進むかのように思われた。あと130km。二時間半もすれば到着するだろう。しかし、その先からはとんでもなく荒れたダートロードを走る。ラハから先の幹線道路は農民らによって完全に封鎖されているという。道なのか荒れ地なのか分からないところを40人ほど乗せたバスはゆっくりと走っていった。すると前方に20〜30人の人だかりが見える。
「カンペシーノ(農民)だ! ブロケオ(バリケード)だ!」
 乗客はそのままバスに残り、運転手と助手がバリケードを通してもらえるよう交渉しにいく。僕たちは一時間待った。結果は絶対に通さないということだった。彼らはこうやって交通を麻痺させ、政府と対立しているのだ。やむを得ず他の道をとることとなった。
 15分後またもやバリケード。再び運転手と助手が交渉に行く。30分ほど激しく農民と口論している様子を皆でバスの中から見守った。やはりこのバリケードを通過するのも不可能か....。すると運転手はバスに帰ってきて、「農民達は、どうしても通りたいのなら100ボリビアーノス通行料として払えと要求している。」と伝えた。なに?まるで追剥ぎではないか?
 多くの乗客達は、通行料を払ってもよいからなんとかコパカバーナに到着したいという。僕はそんな理屈に合わない金はどうしても払いたくなかったが、同じバスに乗って旅している以上、払わざるを得なかった。
 農民達の中には、昼間だというのに酔っぱらっている者がたくさんいて、ナイフを取り出してバスのタイヤを切ろうとしたり、バスに大きな石を投げつけた者もいた。
 僕は少しずつ彼らの要望の訴え方に疑問を感じてきた。それからいくつのバリケードに足止めをくらわされたことだろうか。バリケードの度にバスを停め、乗客はただバスで待つということが続いた。
 夜12時を過ぎ翌日になったというのにコパカバーナに到着しない。僕の隣の席はコパカバーナの家に帰るというインディヘナ(先住民)の女性と一歳の赤ちゃんだった。長いバスの旅の疲れ、バスの中に漂う悲壮な雰囲気、氷点下近くまで冷え込む気温によって赤ちゃんはしばしば泣く。無理もない、大人でさえ泣きたい状態だ。時々僕が赤ちゃんをあやしたのだが、ニコッと笑顔を見せてくれると不安な状況にありながらもホッとさせられる。
”それにしても、私たちは無事コパカバーナまでたどり着くことができるのだろうか?”
 9月21日午前3:17、Macharaという町の近くで12回目のバリケードにひっかかった。外には4、5人の農民が見られるが、なんだか様子が怪しい。彼らはバスによじ登り、天井に積んである荷物を調べようとしている。いや、彼らは強盗だ!!
 二つのバッグを既に降ろしている。バスの乗客の意見は二つに分かれた。皆で降りて強盗と闘おうという者と、彼らは武器を持っていて危険だからここから早く立ち去ろうという者。運転手はそんな言い争いにもかまわず、バスを出発させようとする。結局運転手に押し切られたかたちとなった。
 皆疲れきって、その上飲まず食わずなので精神状態が安定していない。ますます乗客の不安は増し、イライラしている。
 午前6:38、ペルーとの国境の町デサグアデーロに到着。ペルー側にはバリケードはない! あ〜、五体満足でボリビアを抜けることができた。バスの中にはどこからともなく拍手が湧き起こった。
 午前8:30まで国境が開くのを待つ。その間、国境の近くの店で買ったビスケットと水が本当に美味しかった。前々日の夜から何も食べていなかったので、実に34時間振りの食事となった。

 チチカカ湖を右手に見ながら、バスはペルー側をコパカバーナ目指して走る。今まで10kmおきにバリケードに引っかかっていたのが嘘のようにバスは停まることなく進む。あっという間にコパカバーナ手前のボリビアの国境、カサニに到着。ここで念願のボリビア滞在許可30日間を新たに得た。一応目的を達成し一安心。
 さあ、バスに乗ってコパカバーナに入り、今日は宿を取って休もうと思ったのだが、国境カサニからコパカバーナまでの僅か6kmの道は、再び道路封鎖されており、バスは通行不可。国境には20〜30人の軍隊が中と手榴弾を持って待機していた。静かなぺルーから国境ひとつ越えただけで、こんなにも情勢は異なるのか。国境とは不思議な目に見えない線だ。仕方無しに、同じバスでラパスから来たボリビア人の夫婦らと共に、コパカバーナまで歩くことにする。彼らも、農民の訴え方にはひどく憤慨していた。
 歩きながら、一ヶ月前にゴリラでここを走った時のことを思い出す。あの時はペルーの税関にてオートバイの書類について揉めに揉め、4時間税関の係官と口論した末、これまた疲れ切っていたのだ。僕にとってカサニは忘れることのできない国境となった。
 コパカバーナへの道は一ヶ月前とは異なり、どこから運んできたのかというくらい大きな石、ガラスの破片、切り倒された木などによりバリケードされていた。
 午後1:00、一時間半歩いてついに到着。ラパスから28時間の旅だった。しかし、コパカバーナに到着すると、また新たな不安にとらわれた。
”どうやってラパスに帰ろうか.....”
 とにかく疲れていたので、安宿にて一泊した。ベッドに横たわるとあっという間に深い眠りに入った。
 コパカバーナは完全に孤立した島と化していた。ここ数日、この町に到着した車やバスは全くなかった。ただチチカカ湖を渡す船が唯一の交通手段だった。チチカカ湖のコパカバーナ沖には太陽が生まれた島という伝説を持つイスラ・デル・ソルがあり、たくさんの旅行者が訪れていた。しかし、皆ここで足止めをくらっており、ラパスへ行きたいが不可能という者ばかりだった。そう、僕はラパスからこれただけでもラッキーなのだった。いや、荷物とバイクを全てラパスへ置いていて帰られないという状況はむしろアンラッキーか...。日帰りの旅の予定だったので、盗難のことも考えて僅かな現金しかもっておらず、ここでゆっくりとデモが沈静化するのを末などとのんきなことも言ってられない。なんとかラパスに戻らなければ!!
 いくつかのラパス行きの手段が考えられた。船、ペルーのクスコから出る飛行機、自転車を買って走ろうか....。しかし、いずれも資金不足という理由で諦めざるを得なかった。その上、多くの人に尋ねたところ、バリケードはますます強化され、その数は増加するばかりで、治安は悪化の一途をたどっているようだった。
 僕は待つだけのお金がないので、最もラパスにたどり着ける可能性があり、かつ金のかからない方法をとるしかない。デサグアデーロへ戻り、バスを探してみよう。再びカサニまで戻り、ミニバスでデサグアデーロに向かう。途中雪が降ってきた。
 国境デサグアデーロはラパス行きのバスを待つ人で溢れていた。いろんなバスに訪ねたがいずれも当面ラパスへ向けて出発する見込みはないという。6時間待って、一台だけ「行けるところまで行ってみる...」というなんとも怪しく、頼りないバスを見つけた。"Ojala lleguemos sin problema...."
 9月22日、午前4:30出発。依然、幹線道路は完全に封鎖されている為、見渡す限り平野のダートロードをバスは走る。ちなみにペルー人を除けば外国人乗客は僕一人だけだった。
 二日前に比べてバリケードの数は明らかに増えており、厳しい状態だった。出発してからたった5km、三つ目のバリケードを越えた後運転手は、
「ここで皆降りてくれ。ここで待っていたらラパス側からバスが来るから。」
と言った。40人の乗客は乾燥した冷たい風の吹く、痩せた4000メートルの高原に降ろされた。しかし待てども待てども乗り継ぎのバスなど来ない。日は暮れ、気温もぐっと低くなり、おまけに雨が降ってきた。皆、口々に言う。
「運転手に騙された!!」

 午後7:00、40人は二つのグループに分かれた。ひとつは、歩いて三時間の所にある次の大きな町、グァキまで進むというものと、もう一方は今夜この近くで村を探して一泊させてもらい、明朝行動しようというもの。しかし僕には選択の余地がなかった。バスを降りるときに僕は手ぶらだったので、大きなバッグを二つ持った、ペルーのクスコから来たおばあちゃんを手伝った。カバンはこの太った
おばあちゃんがどうやってここまで運んできたのかと思うほどの重さだった。男の僕が持ち運ぶのでも一苦労する。したがっておばあちゃんを見捨てるわけにも行かず、僕の行動はおばあちゃんに委ねられ他も同然となった....。おばあちゃんの足ではこの寒い中、3時間、いや5時間はかかるかもしれない道は歩けないと判断し明日行動することにした。
 明朝組は少数派の12人。ペルー人の学生6人、子供を二人連れた母ら3人、ボリビア人の女性1人、おばあちゃん、それに僕。幸運にも30分歩いたところに7、8軒の家が並ぶ小さな集落があり、どこかに泊めさせてもらえるところはないか訪ねたところ、村の小学校の教室をひとつ貸してもらえることになった。建物の中とは言えども、外は雪が降るほどの寒さ。持ち合わせの食べ物を皆で分け合い体を寄せ合う。「果たして私たちはラパスまで至り着くことができるのだろうか?」という自分たちの置かれた共通の危機感によって強い連帯感が生まれていた。
 翌朝は午前5:00から歩き出した。それにしてもおばあちゃんのカバンは重い...。手伝おうといったものの予想以上に歩く負担となる...。一体何が入っているのだろう?尋ねてみたところ、孫がコチャバンバの大学に通っており、久しぶりに会いに行くかわいい孫のためにペルーの土産や食べ物を詰め込んできたのだという。とっても嬉しそうに孫の年齢や何を勉強しているかなど、おばあちゃんが話す様子が印象的だった。孫のことを語るおばあちゃんの顔は世界共通なのかも....。僕も祖母のことを思いだした。それならばなんとしても運ばなければ...。

 僕らは9月23日午前10:00グァキの町に到着した。デサグアデーロから20kmの地点既に5時間歩いたにもかかわらずラパスまでまだ90kmもある。途中で出会った軍隊の話では、この先バリケードは更に厳しくなるという。 ぺうーじんの親子三人はここでラパス行きを諦めてペルーへ引き返すことにした。辛い一夜を共にしただけに別れがつらい。皆の目に涙が浮かぶ...。
 軍隊の話の通り、グァキ→ティアウアナコ間のバリケードは凄まじかった。バリケードの毎に40〜50人の農民達が待ちかまえており、警察でもイミグレーションでもないのに身分証明書の提示を要求してくる。(彼らはラパスへ食料が運ばれることを嫌う。まるで兵糧攻めではないか!) 農民らに何度か強い口調でペルー側に帰れと言われたが、強引にバリケードを突破する。彼らは酔っぱらっていたり、ナイフや石を手にしているので、こちらは命がけだった。
 夜間は氷点下近くまで冷え込む気温は、日中になると太陽の強い日差しのおかげで暑く感じるまで上がる。太陽の光を反射してキラキラと美しく輝くチチカカ湖を見ながら歩くのも悪くないなと思う。
 ラパス側から歩いてバリケードを越えてきたボリビア人たちに会う。彼らの話によるとティアウアナコまで行けば闇バスが一台存在しているという。料金は少し高めの20ボリビアーノスだが希望の光が見えてきた。こんなおっかないバリケードをいくつも歩いて越えて行くのは危険すぎる!!

 結局その日は50km近く歩いたことになる。ティアウアナコの町まで行くと噂どおり闇バスが存在しており、その後部座席に腰を下ろしたときには、くたくたに疲れていた。それにしてもおばあちゃん、本当良く歩いたよなあ....。
 ”外国人は後部座席で頭を引っ込めてろ! でないと危ない!”
ということで僕はペルー人らと小声でごそごそ話しながら、おとなしくしていなければならなかった。
 午後6:30、日が暮れて暗くなってからバスは出発した。はじめは幹線道路の突破を試みるが予想通り追い返され、またもやダートロードを走らなければならなかった。運転手ははじめて通る道なので、「Quien conoce la carretera ? (誰か道を知っているか?)」と乗客に尋ねる始末である。何度も道に迷って、皆であっちだこっちだと話し合った...。
 ラパスまで6度バリケードに捕まる。いずれも最初は
「絶対に通さない! 我々の訴えが受け入れられるまでは...」
などと調子の良いことを言っておきながら結局は通行料という名目で金を要求してくる。外からバスを蹴ったり、ナイフをちらつかせたりなど強盗さながらの行為。4度目のバリケードとき、一人の農民がナイフでバスのタイヤを切ろうとしているのを僕が見つけ、
「Que hace ? No toca ! (何をしている?触るな!)」
と叫んだ。のの農民は泥酔しており、今度はナイフを片手に僕の方をギロリと睨んできた。万事休す...。他の農民が彼を押さえてくれたので何もなくて済んだのだが...。
 9月24日午前3:00、ラパス、アロハミエント・ウニベルソ到着。ホテルの人や友達らにはずいぶんと心配をかけてしまった....。

 農民の主張したいことは理解できる。しかし僕が目の当たりに見た彼らの訴え方は、本質からずれている気がしてならない。通行人に対し酔っぱらいが強盗して、何を訴えたいというのだ。
 あるバリケードで僕は農民らに尋ねた。
「いったい政府は水1リットルにつきいくら水道料を取ろうとしているの? そんなにも厳しい政策をとろうとしているの?」
 しかし、誰として実質的な数字を知っている者はいなかった。ただ有料化しようとする政府に反対するだけで、具体的なことを全く考えていないように僕には見える。そんな彼らと政府はどうやって交渉を進めることができるのだろうか。
 一方、10月1日現在、連日新聞やテレビは軍や警察と農民達の衝突による死者や負傷者を報道している。9月24日3人死亡、25日6人、26日5人、27日3人、28日3人....。政府はいつまで武力を行使し、そして農民はいったい何を訴えたいのだろうか。この問題はますます泥沼化していくように思えてならない。
 最後に、僕がデサグアデーロ→ティアウアナコ間を歩いた翌日、最もバリケードの厳しかったグァキの町では2名の死者と30人の負傷者が出たことを後に新聞で知った。そして僕は本当に運が良かっただけなのだということも知ったのだった...。


2000年10月1日

 平和の町に催涙弾がとぶ

 永原さんお元気ですか? ボリビアで出くわした事件のレポートを送ります。
他の旅行者の方への情報として役立てばと思い書きました。よろしくお願いします。
       *         *         *

 2000年9月12日、正午。ボリビア、ラ・パスの街は普段と雰囲気が異なっていた。目抜き通りのカジェ・サンタ・クルスはたくさんの人々で埋め尽くされ、彼らの叫び声が響きわたる。
「Fuerza, Fuerza, Fuerza ! Fuerza companeros ! (力だ!仲間達よ!)」
 ボリビアは深刻な経済状況に悩まされている。街頭で見られるたくさんの物乞い達がその実状を表している。公務員もそんな厳しい状況の例外ではない。例えば政府が教師達に支払う給料は実にわずかなものである。教師の初任給は月400ボリビアーノス(約US$50)と言われている。
 そこで教師達は、賃金アップを政府に訴えるためデモを起こしたのだ。デモの行進は約3キロにも及ぶほど大規模なもので、旗を揚げ、スローガンを合唱し、爆竹を慣らしながら続く....。

 その日僕は、デモの様子をラパス中央郵便局前の階段に腰掛けて眺めていた。デモはかなり大規模ではあったが、行進のすぐ真横にいても危険を感じるものではなかった....が、
「バーン!! バーン!! バーン!!」
 警察が突然、人ごみの中に向かって催涙弾を撃ちはじめた!!
 今から思い出してもなぜ警察が発砲する必要があったのか全く理解できない。
辺りは騒然となった。皆一斉に郵便局の建物の中に避難しはじめた。すべてがあまりにも突然のことで僕はしばらくの間何が起こったのか事態を把握できなかった。
 しかしその時僕の前で起こった出来事が全てをはっきりとさせてくれた。
”自分は危険な状態にある”
 警察の放った一発の催涙弾が、僕の横にいた若い女性に命中した。彼女の服の右腕の辺りは燃え、大きな穴が開いている。痛みと恐怖によってその女性は大声で叫ぶように泣き始めた。
 僕は身の危険を感じて体が震えてきた。しかし、何より先に怪我している女性を安全な場所に連れていかなければならない。彼女を引きずって郵便局の中に入る。服を脱がして傷口を確かめてみると、右腕には大きなやけどができていた....。

 それはショックな出来事だった。銃や手榴弾で武装した警官がいとも簡単に発砲してしまう。僕が生まれてから日本で見たものとは違うものがここには存在する。この国と僕の持っている国家や人に対する観念が異なるのだ。戦後の日本教育によって言論は自由で全ての人間に平和は保障されているのだとすっかり思い込み、それは揺らぐことのないものだと考えていた。だがそんなものは国や時代が変わればただの錯覚に過ぎない。

 その後連日のようにデモは続いている。9月30日、デモは更に規模を増し、夜にまで及んでいる。教師らは道路の真ん中で火を焚き、更に市内の交通を遮断している。それに対して警察も催涙弾を発砲している。
 ”ラ・パス(La Paz)”とはスペイン語で「平和」の意味である。
Aqui es La Paz.... pero, no es "la paz" Es "el peligro"
? Donde esta la paz de verdad ? (本当のラ・パスはどこにある?)

1 de OCTUBRE, 2000 伊原正貴


2000年5月4日

 Hola! Como esta ?
Estoy super bien!!!

 昨日無事エクアドルに入りました。今、イバラの町にいます。 "Ibara en Ibarra........."
ちょっと風邪気味ですが元気です。赤道間近だというのに、こんなに寒いなんて!
コロンビア、エクアドルでは緯度よりも高度に気候は左右されるようですね。
今はコロンビアを離れたことでとっても寂しいです。コロンビア人をたくさんのいい出会いがありました。また行きたいけどやっぱり怖いなー。
(ゲリラの活動がずいぶん活発なようです。先日はプロサッカーの選手が誘拐されてニュースになっていました.....。)
 国境越えもカルネを使えば簡単に通過できました。インスペクターはナンバープレートさえチェックしませんでしたが...。
 ゴリラは調子よいのですが、標高が高いためエンジンが吹けません。アンデスは手強いです!!
メインジェットを替えようと思っています。
 キトではメキシコのペンションアミーゴ以来カズ(青山さん)に再会する予定です。さっき無事にキトについたとメールがありました。
 とにかくゆっくり進んで行こうと思います。
ではまたメールします。

Hasta luego........Chao!

Masaki Ibara

 


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